女子野球情報 

川越宗重(「ドリームウイングス」監督、全日本女子軟式野球連盟会長)

シリーズ 指導者たち①

川越宗重 (全日本女子軟式野球連盟会長)

女子野球に関わって36年。
生涯スポーツという観点から環境作りをしてきました

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Muneshige Kawagoe

昭和29年、宮崎県日南市生まれ。大学在学中に女子野球チーム「ドリームウイングス」を立ち上げ、卒業と同時に学習塾「川越塾」(対象:小学4年生~高校3年生)を経営。
現在、関東女子軟式野球連盟と全日本女子軟式野球連盟の会長を務めると同時に、「ドリームウイングス」「バグース」の2つのチームの代表兼監督も務めている。

(文中敬称略)

教え子に背中を押されてチーム作り。出ると負けがやがて…

「子どものころから野球が大好きだったんですが、プレーをする環境がありませんでした」
 巨人や広島が毎年キャンプに訪れ、大変な賑わいを見せる宮崎県でも、生まれ育った地域に野球チームはなく、進学した高校では実力差を感じて野球部に入るのを諦めた。そのため、野球をやりたいという願いがかなったのは、大学進学で東京に出てきてからのことだったという。

「板橋区の商店街の草野球チームに入れてもらって初めて野球をやりました。うれしかったですね。でも野球経験というほどのものはありません。ただ、とにかく野球はやるのも見るのも好きで、特に巨人戦はテレビで毎日のように見ていました」

 女子チームを作ったのは昭和52年に大学を卒業して学習塾を開いた頃。
「中学生の塾生に下手な男子より野球が上手い子がいて、その子が『なんで女の子が野球をやっちゃいけないの?』って言うので、私も若かったもんで、『10人ぐらい集めてくればチーム作ってやってもいいぞ』なんて軽い気持ちで言ったんです。そうしたら本当に10人ぐらい中学生を集めてきた。

 いやだとは思いませんでした。地元の少年野球の指導者たちに協力してもらいながら挨拶や声を出すなんていうところから始めて、キャッチボールのやり方も見よう見まねで教えました。地元の少年野球の大会を見てずいぶん勉強もしました。

 指導者も選手もやる気いっぱいで、女の子だからという劣等感は全然ありませんでしたね。周りに女子チームがなかったので試合の相手はいつも地元の少年野球チームだったんですが、これがもう出ると負けでね。20何対0なんていうのの繰り返しで、それが悔しくてずいぶんしごきました。

どんなに忙しくても日曜日はグラウンドに立つ。

 すると段々寝坊が流行ったり練習に出てこない選手が出てきたりして(笑)。頭にきて、家の前まで行って『起きろー』って言ってたたき起こしてグラウンドに引っぱっていったりもしました。ひどいときは3、4人しか来ないので、子どもたちに『とにかくみんなを連れてきなさい』と言って集めさせたり。

 私は中途半端で投げ出すのが嫌いな性格なんです。だから子どもたちにも『一度やると決めたことは最後までやりなさい』といってずいぶんハッパをかけました。私も子どもたちも無我夢中でした。勉強嫌いで少々危うい環境に身を置く子もいたので、野球に引っぱり出すことは教育的な意味もありました」

 まるでドラマのような話だが、その甲斐あってチームは段々強くなり、地元の少年野球大会で勝利を重ねるようになった。
「すると今度は少年野球指導者のほうに『なんで参加資格のない女子チームを出すんだ』なんていう不協和音が出始めたんです。女の子に負けることが我慢できなかったんでしょうね。それでやっぱり女の子は女の子でやらないといけないと思って、昭和53年頃、日本女子野球協会(現在の日本女子野球協会とは別もの)に加盟したのです」

女子野球の全国組織が消滅。新たな組織作りに奔走

 日本女子野球協会は昭和53年に結成された、衆議院議員の山口敏夫が会長を務める団体で、全国の女子チームを集めて埼玉県や神奈川県で全国大会(一般の部と少女の部)を開いていた。逆にいえば全国大会が開けるほどチームがあったわけで、川越の記憶によると東京、神奈川、大阪、四国などにチームがあったという(ただし手元に資料が残っていないため、断言はできないとか)。

「昭和57年の全国大会は北海道で開かれたんですが、私のチーム、ドリームウイングスが少女の部で優勝しました。ところがこの大会の後、協会が自然消滅してしまったのです。その結果、全国のチームが拠りどころを失ってバラバラになってしまった。

 これじゃいけないと思って、まず東京都女子軟式野球連盟というのを作り、東京都のチームをまとめました。そして神奈川県にも女子軟式野球連盟があったので、代表の藤原信元さんに会いに行って、『いずれは全国組織を作らなくちゃいけないが、まずは関東でまとまりましょう』と誘って、昭和63年3月に関東女子軟式野球連盟(以下、関女連)を立ち上げたのです」

 関東大会も新設され、第1回大会は一般の部9チーム、少女の部(小中学生)5チームが参加して東京都清瀬市の東邦生命グラウンドで行われた。「当時は茨城県にも『日立レッズ』というチームがあって、大会に参加してきたのを覚えています」。

熱意が動かした新聞社。そして全日本女子軟式野球連盟の誕生

 関女連ができたことによってようやく本格的に女子野球の環境作りがスタートしたが、しかし事はそう簡単にはいかなかった。まずグラウンドが確保できない。女子野球の団体は既存の野球組織に属していないため野球団体とみなされず、どこもグラウンドを貸してくれなかったからだ。また川越の名を騙って営利目的の女子野球イベントを開く人たちも現れたという。

「朝日新聞大阪本社の山西さんという方から『今度全国大会やるんですか』って言われてびっくりしましてね。『誰がそんなこと言っているんですか』といって調べてもらったら、小さなイベント会社だということがわかった。こんな状況をそのままにしていてはいけないと思って山西さんに相談したら、『東京本社に相談したらどうですか』と言って企画部の澤口さんという方を紹介してくださった。
 そこで澤口さんを訪ねて、全国組織がなくなってしまったこと、詐欺まがいのイベントが横行していることを話し、『だからしっかりした女子野球組織を作らなくちゃいけない。生涯スポーツという観点で協力してほしい』と話をしたんです。するとその熱意が伝わったのか『女子も野球をする時代が来たんですね』と理解を示してくれて、一緒にやりましょうということになったのです」

 苦労していたグラウンド探しは朝日新聞社系列の日刊スポーツ新聞社の肝いりで神宮の軟式野球場を借りることができるようになり、ヤクルトスワローズの選手たちが「おお、やってるな」とのぞきにくることもあったとか。

 残念ながら神宮は使用料が高かったため引き続きグラウンド探しは続いたが、それでも関女連の活動は全国の女子野球関係者の知るところとなり、まもなく関西や北海道から一緒にやりたいという連絡が入った。そして平成2年8月、全日本女子軟式野球連盟(以下、全女連)が誕生し、理事長(当時は会長職はなかった)には満場一致で川越が選出されたのである。

全女連の全国大会は第2回大会から江戸川区で開かれている。

 同年秋には朝日新聞社と日刊スポーツ新聞社が後援するかたちで第1回全国大会が開かれ、一般の部8チーム、小学生の部6チームが神宮の軟式野球場で熱戦を繰り広げた。第2回大会からは女子野球に理解を示した東京都江戸川区に会場を移して毎年開催されるようになり、朝日新聞社は現在は後援ではなく主催者として大会をサポートしている。

 それにしても二十数年にわたって関女連と全女連の会長を務め、日曜日はどんなに忙しくても監督としてグラウンドに立つ、その原動力は何なのだろう。
「学習塾は子どもたちが帰ってきてからが仕事ですから、それまではけっこう自由がきくんですよ。そのへんが連盟とチームを両立できている要因じゃないでしょうか。
 それに渉外関係で色々な人に会って意見を聞くことで視野が広がり、学ぶことも多かった。それに対する感謝の気持ちが、女子野球に関してできるだけのことをやっていこうという思いにつながっているんです。
 そりゃあ大変ですよ。でも前にも言ったように中途半端が嫌いな性分ですから(笑)」

指導の苦労の中から見つけた「会話」の大切さ

 立ち上げてしばらくは小中学生が多かったドリームウイングスは、次第に社会人中心のチームに変わっていき、一般の部の全国大会で準優勝2回、3位3回という成績をおさめるまでに成長した。

感情的に怒鳴るようなことは絶対にしない。

「選手たちには『どんな体調、状況であれ、グランドにはベストな状態で入る』ということを徹底して言ってきました。選手たちもよく応えてくれて、そのおかげでここまでやってこれたと思います。

 指導のコツというほどのものはありませんが、長くやってきてわかったのは、女の子は『こうだからこうなんだ』という過程を丁寧に説明してあげると納得してくれるということです。だから私が特に大事にしているのは会話です。

 たとえば私は試合中によく叱るんですが、ただ『何やってんだ』って言うだけじゃなくて、何がいけないのか、どうしなきゃいけないのか、その理由まできちんと言ってあげるんです。ちなみにうちのチームは試合後に反省会をやらないんですが、それはこのやり取りが反省会の役割を果たしているからです。

 またグラウンドに行ったら選手たちが大声で喧嘩をしていたとします。そういうときは輪を作って座らせて、『いったいどういうことなのか一人ずつ意見を言いなさい』って言うんです。すると中にははっきりと物を言わない子がいたりする。と私が『そうじゃないだろ。遠慮しているからだめなんだよ。その人が悪いなら悪いってはっきり言ってもいいんだよ』と本音を言わせるんです。感情的にならないようにしてみんなが言いたいことを言い合えば、たいていおさまりますよ」

指導するときは、なぜそうするのか、理由まで説明する。

 相手を理解し、こちらを理解してもらうためにも言葉を惜しんではならないという。
「野球をやっていないときも『どうした、会社やめたんだって?』なんて、あんまり聞いちゃいけないことまでオープンに聞いたりします。自分の娘みたいな感覚ですね。一緒に飲んだり食べたりしながら話す機会も多いです。
 ほめることもしますよ。お世辞はあまり言えない人間なんですが、試合でファインプレーをしたりヒットを打った選手はほめるようにしています。また、三振した打者には、『気持ちを切りかえて。次は打てるから』と励ますんです。
 だからみんな、私は口の悪いところはあるけれども、心の中には愛情があるっていうことを理解してくれていると勝手に思っています(笑)」

全国組織を引っ張る強力なリーダーシップ

「昔は世の中の人の女子野球を見る目が厳しくて、何事につけ上から目線でものを言われました。女の野球ごっこにグラウンドは貸せないと言われたり、ささいなことでグラウンドで審判員に叱られたり。だから『謙虚に謙虚にやりなさい。そうすればいつか理解してもらえるから』と言ってやってきました。最近ですね、ようやく世間に認めてもらえるようになったのは。36年かかりましたけど」

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 組織の長として、外に対しては自ら腰を低くし、その一方で連盟内部は強力なリーダーシップと清廉な理念で引っ張ってきた。
「まず連盟の方針を一本化するようにしています。Aさんはこう言っていたけどBさんはこう言っていたということになると、信用なんて簡単に吹き飛んでしまいますから。だから連盟の役員たちには、連盟の方針はこうであるということを徹底して教えているんです。そしてこちらの説明に納得しない人がいたら、じゃ、会長の川越と話をしてください、というふうにして、最終的な責任は私が負うことにしています。

 あとは会計の明朗化です。通帳は1冊だけ。2冊は絶対に作らせません。会計報告も毎年やって、お金の出入りは誰が見ても全部わかるようにしています。うちは会費以外ほとんどお金が入ってこないんで(笑)、無駄をなくす努力もしています」

若い人も年をとった人も、誰もが野球をできる環境を

 今後女子野球が発展するために、全女連の会長として考えることは何だろう。
「日本は組織で動く国なので、まずは軟式野球の統括団体である(財)全日本軟式野球連盟に加盟することが必要だと思います。そのためにグラウンドサイズなど、女子選手の体力に見合った規定作りに積極的に取り組んでほしいとお願いしています。それができたら加盟するというのが私の考えです。
 女子用の規定にこだわるのは、生涯スポーツという観点で女子野球を見ているからです。野球を始めたばかりの人も年をとった人も、誰でも野球ができるためには、男子とは違った規定が必要なんです。

 でも、なかには『硬式は女子も男子と同じ規定でやっているんだから、女子用の規定なんかいらない』と言う人がいます。確かに若くて上手い人なら男子と同じ規定でもやれるでしょう。でも世の中上手い人ばかりじゃないし、年をとれば誰でも筋力が衰えます。だから硬式を基準にして女子野球の規定を語るのは違うと思うのです。

 もちろん硬式を否定するものではないんですよ。硬式の規定でやれる間はやればいいし、連盟の役員にも『日本代表やプロ野球選手を目指して硬式をやりたいという人がいても別におかしいことはない。それは時代の要請なんだ』と言っているんです。

 ただ私は、女子が長く野球をできる環境を作ってあげたい。今硬式をやっている人たちも、軟式と硬式をかけもちしている人たちも、年をとったらいつか軟式にもどって来るでしょう。そういう人たちのためにドアを開けておいてあげたいんです。だから全女連は軟式と硬式の二重登録を禁じていないのです。

 実は今、シニアリーグを作ろうと思っているんです。一般の大会と中高生の大会に加えてシニアリーグができたら、女子野球の世界はもっと幅が広がって楽しくなるんじゃないでしょうか」

ドリームウイングスのメンバーと。

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