昭和50年代の全国大会
日本女子野球協会(軟式)と、昭和50年代の全国大会
日本女子野球協会とは
昭和53年(1978年)2月から58年秋ごろまで存在した、女子軟式野球の全国組織。
昭和50年から始まった少年野球ブームと、「野球狂の詩」の水原勇気人気を背景に女子野球の機運が高まり、52年11月に川崎球場で、おそらく日本初の少女野球大会(関東大会)が行われたことをきっかけに、誕生した。
このとき参加した小中学生チーム4チームは、JBBSエンゼルス(東京都千代田区)、ジュニアフラワーズ(台東区)、滝山コメット(東京都東久留米市)、前橋中央レディース(群馬県)だった。
立ち上げたのは「日本少年野球学校(JBBS)」の経営者・日野晴雄氏で、自らは理事長になり、会長には衆議院議員(当時)の山口敏夫氏が就任した。事務局は東京都渋谷区の日本医歯薬研修協会内におかれていた。
昭和54年2月25日付づけ神奈川新聞の記事「県大会へ10チーム 増えましたお嬢さん球団」には、協会には5000人近いチームメンバーがいるとみられている、とあり、57年8月25日づけ北海道新聞の記事「成長へ悩み多い女子野球」には、所属チームは九州を除く全国に60あったと書かれている。
しかしこの数字が本当かどうかは疑わしい。というのも協会は登録制をとっていなかったため、正確な人数やチーム数をつかんでいたとは思えないからだ。
また上記神奈川新聞には、「東京の2ブロック、神奈川、前橋、広島、北海道、大阪の7ブロックに支部が結成された」とある。本当に支部といえるほどの組織ができたかどうかは定かではないが、それぞれ核になるチームがあったことは確かで、東京はジュニアフラワーズや滝山コメット、神奈川は緑スネークス、前橋は前橋中央レディース、広島は広島メッツ、北海道は北海ベアーズ、大阪は大阪ドリームガールズが地域の女子野球を牽引していた。
のちに日本女子野球協会の下部組織を名乗る連盟が北海道や関西にできたが、これらの連盟や支部が全国組織として横のつながりをもつことはなく、女子野球の環境作りのビジョンが話し合われることもなかった。基本的に日本女子野球協会は、大会を開くための組織だったといっていいだろう。
昭和53年8月、54年8月、55年か56年、57年8月、58年8月の計5回、全国大会を開催し、協会が主催、または共催する関東大会も行われた。
しかし当時を知る人たちによると、協会は第5回全国大会が終わった58年秋ごろに、突然消滅したという。一説によると役員によるお金の持ち逃げが原因だったという。
※女子野球史上、「日本女子野球協会」と呼ばれる組織は3つあり、昭和39年発足の女子プロ野球(準硬式)時代のものと、平成14年発足の硬式のもの、そしてこの軟式のものである。
日本女子野球協会が主催した全国大会の記録
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※当時のチームで現在も活動しているのは、ドリームウイングス(東京都、昭和52年秋創部)、オリオールズレディース(東京都、昭和54年1月創部)、神戸レディース(現「オール兵庫」、昭和50年代初めの創部)の3つ。