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神奈川県の記録

 関東を知れば見えてくる、現代女子野球の源流

第2章 神奈川県の記録「そのとき現場は」

神奈川県の選手たち。昭和54年の第1回春季神奈川大会か? 

※文中の女子野球とは、すべて女子軟式野球のことを指します。
※当時のチーム区分で「一般」は高校生以上、「少女」は小学生、中学生、または小中学生チームを意味します。

「横浜レディース」に始まる神奈川の歴史

「少女野球チームを作ったのは、周りに野球をやりたいという女の子がチラホラいたからです。当時私はママさんソフトボールチームに入っていたのですが、それを見ていた子たちが『ソフトボールじゃつまらない』『ボールを上から投げてみたい』と言ったのです」
「横浜ガールズ」の元監督、辻けさみさんは笑う。昭和52年か53年の、暖かくなる前のことだったという。

 ソフトボールの実業団出身の辻さんには、野球をやりたいという気持ちはなかったが、子どもたちの声を聞いて、「女子野球というのも面白いんじゃない?」と言って、当時神奈川新聞に勤務していた夫、喜代治さんと2人で始めた。水原勇気人気も野球ブームも関係なかったという。

 喜代治さんが社内の広告担当者に頼んで選手募集の広告を出すと、すぐに7人が集まり、さらに口コミでメンバーがそろった。
「電車で通ってきている子もいましたよ。まずうちに集合し、それから市内の浅間台にある宮谷(みやがや)小学校のグラウンドに移動して練習しました。ほかに女子チームがなかったので、東京の稲城(いなぎ)市まで遠征もしました」
 この稲城市のチームがどこだったかはわからない。しかしこの「横浜レディース」が火付け役となって、神奈川に女子野球が広まった。

 まずママさんソフト仲間で、横浜市の学童野球関係者・山本順治さんの妻が入団。「通うのが大変だから」と言って、夫とともに「神奈川レディース」(横浜市西区)を立ち上げた。また横浜レディースの活動を報じる神奈川新聞の記事を見て、「緑スネークス」(横浜市緑区)の柳田富志男代表が女子チームを創部したのだ(53年4月)。
「地域活動のなかで女子が参加できるものを探していたからです」(柳田さん)

関東を牽引した「緑スネークス」の柳田代表

 柳田さんが女子野球界に参入した効果は絶大だった。創部後まもなく、第1回全国大会の話を聞いた柳田さんは、大会を神奈川に誘致し、もてる人脈をフルに生かして成功に導いたのだ。

柳田富志男さん。平成29年現在80歳。記憶力抜群だ

 まず会場。まだ興味本位でしか見られなかった女子野球が、全国大会が開けるような立派な球場を借りることは難しい。全国大会の準備会議(おそらく53年4月の第1回関東大会の反省会)で、東京、神奈川、群馬の指導者たちが思案投げ首するなか、柳田さんだけは「神奈川の球場ならおさえられるんじゃないか」と考えた。

 そして川崎球場をはじめ、等々力(とどろき)球場、保土ヶ谷球場といった大きな球場の使用許可をとり、大会は神奈川県で行われることになったのである。

 さらに来賓として、伊藤三郎横浜市長や長洲一二神奈川県知事を呼ぶことにも成功した。
「市長が来れば信用もスポンサーもつくし、マーチングバンドなども一緒に来るから、メリットが大きいんです」
 それを可能にしたのは、
「当時はボーイズリーグの役員をやっていたこと、それに長い年月、自治会長や犯罪撲滅運動、環境美化運動など、地域に根ざした活動をしていたからです。それだけ共鳴してくれる人が多かったのです」

昭和53年4月創部の緑スネークス。最盛期には小学生、中学生、一般の3チームがあった

 大会前には柳田さんが自治会長を務める横浜市美しが丘の少年野球場で、華々しく前夜祭も行った。女子野球専用球場として、たまプラーザ駅から徒歩5分の所にあった新石川小学校(横浜市)の学校用地を、5、6年確保したりもした。

 組織作りの面でも活躍。第1回全国大会後の53年11月、協会の下部組織「日本女子野球協会神奈川県支部」を立ち上げたが、協会のやり方に疑問を抱くと、今度は54年秋までに「関東女子野球実行委員会」を立ち上げ(55年に「関東女子野球連盟」と改称)、会長として神奈川、東京、他の関東チームを束ねた。

 関東女子野球連盟の記録「第4回関東女子野球総会」によると、昭和57年3月時点の加盟数は、神奈川8球団11チーム、東京11球団12チーム、群馬1球団の、合計20球団24チームだった。

 柳田さんは57年にボーイズリーグ神奈川支部長になったため、会長の座を藤原元信さん(緑スネークス)に譲ったが、その後も大会の運営を手伝うなどして連盟を助けた。

柳田さんたちは54年5月に「日本女子野球協会神奈川県支部」の名前を捨てて、この大会を開催 昭和57年4月、連盟所属の東京都のチームが、「東京支部」を名乗って主管、 昭和57年8月に行われた関東女子野球連盟主催の全国大会。水島新司さんが表紙のイラストと挨拶文を寄稿 

緑スネークスOGたちの活躍

 平成10年(98年)、アメリカの女子プロ野球リーグ「レディース・プロフェッショナル・ベースボール(LPB)」でプレーした日本人、鈴木慶子さんは、緑スネークスのOGだ。 
 入部のいきさつは「シリーズ指導者たち 鈴木慶子」をご覧いただきたいが、
「入団に際してはテストがあったんです。緑スネークスの拠点だった美しが丘小学校に行って、遠投などをやった記憶があります」
 と振り返る。当時小学4年生だったにもかかわらず、鈴木さんは「とてもうまかった」(柳田さん)そうで、見事合格。第1回、第2回全国大会に出場し、大人になってからは東京の「町田スパークラーズ」で全国優勝を果たした。

 東京女子体育大学に女子軟式野球部を作り、卒業後は早稲田実業学校に女子軟式野球同好会を作った大塚由香(旧姓・馬淵由香)さんも、同チームで野球の楽しさを経験した人だった。(参考/特集「大学野球がくれたもの」第2章
 
 このほか女子野球日本代表だった石田悠紀子選手の母、石田京子(旧姓・千葉京子)さんも、同チームのOG。関西に引っ越したために在籍期間は短かったが、53年8月までに関西初の女子軟式野球チーム「大阪エンタープライズ」を創部している。

「緑スネークス」は数々の女子野球のパイオニアを生み出したチームだったのだ。

一般の部。緑スネークス(後列)、横浜ガールズ(前列左)、神奈川レディースの皆さん 

※写真提供/柳田富志男

昭和53~63年まで神奈川県にあったチーム
(大会パンフレットや新聞記事などより)

 パンフによって表記がまちまちな場合は、以下で統一した。レディス→レディース、スネイクス→スネークスなど。

横浜市/横浜ガールズ、神奈川レディース、緑スネークス、緑スネークス・ジュニア、三ツ沢イーグルス、鶴見ファイターズ、鶴見ニューファイターズ、瀬谷ハニーズ、ヴィオレッツ(川崎市から移転)、日限山クラブ女子部(日限山スパローズとも)、西洗シャークス女子部、港南プラザヤングスターズ女子部、オール京急港南女子
川崎市/川崎マイナーズ、川崎、川崎ブラック・ジャガーズ、ロッテ・バイオレッツ、ロッテ女子野球クラブ(のちに東京都大田区へ)、ヴィオレッツ(セントラル・ヴィオレッツとも。のちに横浜市へ)
鎌倉市/はっぴーえんど湘南(のちに藤沢市へ)
茅ヶ崎市/浜見平サイファーズ
藤沢市/はっぴーえんど湘南(鎌倉市から移転)

※写真提供/柳田富志男

取材協力/柳田富志男(元関東女子野球連盟会長)、辻けさみ(元横浜ガールズ監督)、鈴木慶子(元町田スパークラーズ代表兼監督)

参考資料/昭和53年、54年、57年の「女子野球日本選手権大会」および、58年の「日本女子軟式野球選手権大会」のパンフレット、「第2回女子野球春季関東大会」(54年)ほか関東開催の各種大会パンフレット、『ジュニアベースボール』53年10月号、11月号(ベースボール・マガジン社)、『ガッツ ベースボール』53年8月球夏特別第5号(JBC出版局)、『オリオールズの10年』(町田オリオールズ)、『女子軟式野球 エラーズ史』(跡見学園所蔵)、「ボク顔負け 少女野球」(神奈川新聞52年11月7日)、「初の女子野球神奈川大会」(毎日新聞53年11月4日)、「県大会へ10チーム 増えましたお嬢さん球団」(神奈川新聞54年2月25日)、「第4回関東女子野球総会」(57年3月、関東女子野球連盟)ほか

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