女子野球情報 

第2部

特集 大学野球がくれたもの

第2部 女子野球の底辺を広げていったOGたちの物語

桃山野球場から臨む富山湾

1.上智大学の系譜  2.東京女子体育大学の系譜  3.日本体育大学の系譜 
4.金沢学院大学の系譜  5.東京外国語大学の系譜  6.Short Story

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 2012年、日本女子体育大学の初優勝で終わった「第26回 全日本大学女子野球選手権大会」。抱き合って喜ぶ選手たちの頭上に広がる魚津の青い空。22年前、その同じ空を、おさえきれないほどの高揚感を抱いて見つめていた人がいた。上智大学の八木久仁子さん(93年卒)である。

八木久仁子さん

「1989年8月のとある早朝。朝刊に『女子野球大会』の小さな記事を見つけたときの胸の高鳴りを、私は忘れることができません」
 それは魚津で開かれていた大学の全国大会の記事だった。
「ずっと好きだった野球、でも女子だからと諦めていた野球。それが今そこにある」
 
 いてもたってもいられなくなって特急で駆けつけた八木さんが見たものは、「草野球じゃない熱い勝負」だった。

「やりたい! てゆうか、やらな死ぬ」
 そう思った八木さんは仲間をかき集めて軟式野球サークルを結成し、翌90年に大会に初参加した。
「試合はめちゃくちゃだったけど、すべてに全力投球の上智大チームに、魚津の街も人も、とても温かくしてくださいました」

 グラウンドはJR四ッ谷駅から見下ろせる上智大学の運動場(真田堀の埋立地)。他の部活の人たちの好奇の目をものともせず、空いている時間をねらっては練習に励んだ。

「野茂選手に負けないくらい練習して、野村監督に負けないくらい野球の勉強をしました。私の球を打ち砕こうとするバッターがいて、ほかの大学のエースとライバルになって、野球選手として競い合い、熱くなる痛快さ。最高でした。私は大学時代に魚津で〝甲子園"を経験させてもらったと思っています」

大阪ワイルドキャッツのメンバーと

 卒業後は同チームの監督に就任して後輩を指導するかたわら、上智大OGチーム「オールソフィア」を立ち上げて投手として活躍。2000年には「日米女子野球大会」の日本代表(第2期)に選ばれるまでに成長し、01年には「第1回女子野球世界大会」にも投手として出場した(第3期日本代表)。

「いつも妥協せず、熱い、レベルの高い野球を目指しています。それはあの魚津での輝きを求め続けているからかもしれません。日本代表としてマウンドに立ったとき、ホームベースの向こう側に魚津の風景を見ていました。あの桃山球場の風を感じていました。魚津は私の原点です」

 大阪に帰った八木さんは01年に軟式クラブチーム「大阪ワイルドキャッツ」を立ち上げ、10年には関西女子野球ジュニアリーグも創設して底辺の拡大と若手の育成に努めている。12年には武庫川女子大学野球同好会の監督に就任し(大阪ワイルドキャッツと兼任)、再び魚津の地にもどってきた。青春の日に果たせなかった「打倒日体大」を夢見て。

二井理江さん

 もう一人、上智大学OGで忘れてはならないのが、軟式チーム「広島レッズ」を立ち上げた二井理江さん(94年卒)だ。
 野球がやりたくても環境がなかった二井さんは、大学に女子軟式野球サークルがあることを知って飛びついた。

「私がいたころの上智大はチームの創生期だったこともあり、イケイケどんどん、やってみなはれ、の雰囲気でした。おかげさまで私も思う存分、やりたいことをやりたいようにやっていましたね。自分たちで盛り上げて、自分たちで考えて、自分たちで行動する。野球に対する熱さとノリと勢い、みたいなものはどこのチームにも負けなかった自信があります(笑)」

 大学を卒業すると山口県の軟式チーム「周南オールスターズ」に入部。03年には広島に移って「広島レッズ」を立ち上げた。
「場所もない、道具もない、指導者もいない、選手もいない、人脈もない…。ないない尽くしの中、まずはバッティングセンターをしらみつぶしに回ってメンバー募集のチラシを置いてもらうところから始めました」

 地元の人の協力もあってチームは順調に成長し、二井さんは現在でもコーチとして若い世代の育成にあたっている。

末永周子さん

 八木さんに始まる上智大学野球部の糸は、一般大学であるにもかかわらず一度も切れたことがない。その理由を末永周子さん(01年卒、関東大学女子軟式野球連盟理事)はこう言う。
「OGに現役選手を支援する意識が高いことだと思います。私が学生のころは八木さんなど創設メンバーが頻繁に顔を出して、野球部の歴史や競技としての女子野球の素晴らしさを教えてくれました」

 卒業間もないOGが監督やコーチとして後輩を指導し、そうでないOGも仕事の合間を縫って後輩の指導にあたる、その伝統は今も健在だ。このように熱い思いが脈々と受け継がれているからか、上智大学からはほかにも女子野球界のために尽力する人材が何人も出ている。
 
 前述した末永周子さん、関西女子野球ジュニアリーグの実行委員を務める陽奥千恵さん(96年卒)、最近では神奈川県の女子学童チーム「横浜DeNAベイスターズガールズ」の指導を手伝う青井佐映子さん(11年卒)などだ。

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 上智大学から遅れること3年、東京女子体育大学に女子野球部ができたことも、女子野球界に大きな影響を与えた。創設したのは馬淵由香さん(96年卒)。昔から女子野球が盛んだった神奈川の出身らしく、子どものころから女子野球界で活躍していた人である。

馬淵由香さん

「大学野球との出会いは小学生の時。当時『緑スネークス』という女子チームで野球をやっていたんですが、あるとき跡見学園女子大学の野球部と対戦したんです。試合は大差で私たちが勝ちましたが、そのとき大学になったらまた野球がやれるんだと思いました」

 中学高校では部活動をしたいと思い、野球をやりたい気持ちを抑えてソフトボール部に入部。大学に入学し、一緒に部活見学をしていた友達が昔野球をやっていたという話を聞いて、野球をしたいという気持ちが再燃したという。
「そういえば跡見に野球部があったな…」と、早速跡見学園に問い合わせて同好会を作り、監督兼主将に。未経験者が多かったが、そこは体育大学、すぐにうまくなっていったという。

 全国大会には翌年の93年夏に挑戦。準決勝で日体大、決勝で金沢学院大を下して、奇跡の初出場初優勝を手にした。
「それからも打倒日体大で、全国優勝を目標に選手を集め、グラウンドの手配、練習、試合と、燃え尽きたといってもいいくらい野球にのめり込みました。また、魚津に行くためのお金をかせがなくちゃいけないので、バイトして野球してっていう毎日でした」
 
 初心者ながら夢中になって野球に打ち込む仲間を見て、「野球を知らなくても、こんなに楽しいね、面白いねと言ってくれる女の子たちがいるんだ」と思った馬淵さんは、野球をやる女の子を増やしたい、野球ができる環境を作りたい、と思うようになったという。

 そして非常勤講師として就職した早稲田実業学校で、02年、女子野球同好会を立ち上げ、04年には高校生の全国大会(軟式)で優勝に導いた。女子高校生が野球をするなんて考えられなかった時代に、いち早くチームを作った意義は大きい。

「大学でチームを作り、何もかも自分たちでやった経験があったからこそ、早実でチームが作れたんだと思います。

09年、16年ぶりの全国優勝を果たしたときのジャパンカップ

 早実の生徒たちはスポーツより勉強や音楽などをやってきた女の子たちです。野球のルールも知りません。それなのにボールを投げたりボールを打ったりすることが『本当に楽しい』と、私が小学生のころに味わっていたのと同じ感覚を彼女たちが口にしたとき、まだまだ女の子が野球をする環境がないこと、こんなに楽しい野球をどうして男の子ばかりしているの? という気持ちが大きくなって、もっともっと女の子が野球を好きになってくれる環境を作ってあげたいと思いました」

 馬淵さんは現在、星美学園中学高校に移り、ソフトボール部の監督として子どもたちの指導にあたっている。「いつかは軟式チームを作りたい」と願いながら。

 東京女子体育大学野球部はその後、青森に小中高校生チーム「スポルト・ベースボールクラブ」を作った植村望さん(04年卒)や、神村学園から入部し、現在は沖縄にもどって「鳥光」「ティーダバル」で沖縄女子野球を牽引している城間智子さん(06年卒)、「神龍」を作った本澤沙織さん(06年卒)などを輩出し、また㈱ナガセケンコーで各種女子大会のバックアップをしている山田佳代子さん(04年卒)、第3~5期日本代表を経験後、㈱フジテレビに入社して女子野球の番組作りにも携わる横井沙織さん(02年卒)など、多方面に人材を送り出している。

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佐藤具子さん

 日体大野球部の創部のいきさつは把握していない。しかしあれだけ強く、また長い伝統があるだけに、卒業後は教員としてソフトボールや野球の指導者になった人が多いと聞く。創部後まもなく全国大会3連覇したときの選手、野上和恵さん(93年卒)は、都立荒川商業高校硬式野球部(男子)を率いたことで知られる。 

 また佐藤(旧姓・丸吉)具子さん(96年卒)は、勤務先の西東京市のスポーツセンターで、04年に女子小中学生クラブチーム「西東京ビクトリーズ」を結成。「大学時代に女子だけで野球ができる環境の大切さを知ったので、今度は自分がその環境を作る側にと思ったのです」。

 現在東京都の女子学童チーム「狛江MATES」の監督を務める池田(旧姓・樋口)由起子さん(94年卒)も初期の頃同校で活躍したメンバーの一人だ。01年卒の市川友子さんは一般クラブチーム「NSフェローズ」を立ち上げ、最近では11年に卒業した前田慶子さんが故郷熊本に帰って小中学生クラブチーム「暴れん坊ガールズ」のコーチになっている。

田村知佳さん

 さて大学軟式野球部出身で、教員として女子野球チームを作った人といえば、前述した東女体OGの馬淵由香さんが知られているが、もう一人、日体大OGで「横浜隼人中学高校」にチームを作った田村知佳さん(03年卒)も忘れてはならない。

 小学1年で野球を始めて以来ずっと野球を続けてきた田村さんは、國學院久我山高校硬式野球部で男子と一緒に白球を追い、女子軟式野球部があることを知って日体大に入った。「ずっと男子の中でプレーしてきた自分にとって、女子だけの中で野球をやってみたいという気持ちが小さい頃からあったからです」。
 
 現在「千葉マリンスターズ」で活躍している大久保菜緒子投手と組んだ大久保―田村バッテリーは当時最強といわれ、在学中、全国大会を3回制覇。

横浜隼人高校に女子野球部を創部

 大学最後の年に念願の日本代表になり(第5期。以後第8期まで計4回日本代表)、野球への思いをさらに強くした田村さんは、横浜隼人高校の教員になると女子軟式野球部を立ち上げ、10年には軟式の高校生の全国大会で優勝させた。12年秋からチームは硬式に転向し、各種硬式大会に出場している。

「大学時代、男子と一緒にやってきた経験を生かして思い切りプレーすることができた反面、女子の中に入って気持ちの面で悩んだ部分がたくさんありました。でも男子と女子の違い、たとえば野球への取り組み方、考え方、目的に向かって努力する過程の違いを知ることができたからこそ、女子が野球をできる環境を作り、整えようと思ったのです」
 
 子どもたちの指導に力を尽くすと同時に、選抜チーム「Far East Broomers」のメンバーとして国際大会に出場する。「指導の勉強をするためにも、できる限り自分自身も現役でいたい」と野球への思いは熱い。

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 雪深い北陸の小京都、金沢の大学が、かつては優勝常連校だったと聞くと驚くが、第4回~15回大会(90~01年)まで、12年にわたって日体大と優勝争いを繰り広げていた。
「石川県の大学がなんで強くなったんでしょうね。強いて言えば元々ソフトボールが盛んな土地だったからでしょうか」と関係者も首をひねるが、その歴史の中からは現在も女子野球界を牽引する3人のリーダーが出ている。

 1人目は松本彩乃さん(98年卒)だ。野球がやりたい一心で女子野球部のある金沢学院大学に入り、2年3年と全国大会連覇。同校はそのあとも勝ち続け、4連覇を成し遂げているから、松本さんは同校が最も強かった時期のメンバーということができる。

 しかし松本さんは4年生のとき、もっとうまくなりたいと願って女子軟式野球部をやめ、男子の硬式野球部へ。アメリカのプロリーグに所属する日本人女性(鈴木慶子さん)がいると聞けば、「自分もそこに行くと勝手に決めてました(笑)」。
 
 卒業して1年後には、後輩たちに頼まれてコーチとして同校の女子軟式野球部にもどるが、その一方で「自分のレベルがどのくらいなのかを知りたくて」、00年に「日米女子野球大会」の日本代表セレクションを受け、合格。以後「女子野球世界大会」「女子野球ワールドカップ」をふくめ、日本代表5回、代表コーチを2回務めている。

「私が大学時代は野球をする女性が少なく、選手のレベルも指導者のレベルもまだまだでした。でも野球をやりたい女性にとって学院大は貴重な選択肢になっていたと思います」
 
 07年秋頃に一度現役を引退するが、08年に女子野球日本代表監督の大倉孝一さん(当時)から「監督という立場から野球を見たらどうか」と声をかけられ、「倉敷ピーチジャックスレディース」の監督に就任し、現在に至る。

坂下翠さん

 2人目は坂下翠さん(01年卒)。子どものころから野球が大好きだったが環境がなく、中学、高校(石川県の松任高校)はソフトボール部に所属。だが、
「当時コーチに来ていただいていた奥村誠さん(現津幡高校ソフトボール部監督)に、『お前は野球向きや! 学院大に女子の野球部があるからどうや? 近い将来、世界大会もあるらしいぞ』って言われたので入りました。で、入学したら硬式じゃなくて軟式だったんで、ありゃ! って感じでしたが、野球には変わりないし、いっかという感じで始めました」

 在学中に全国大会優勝2回、準優勝1回を経験。4年生のときに「セレクションがあるんだけど受けてみないか?」と誘われ、「そんなんあるんやー。どんなもんかなーと思って」日本代表セレクションを受け、合格(第2期)。以後5回、都合6回日本代表に選ばれている。

「大学野球で得たものは日本一という称号と仲間。大会中に一試合一試合勝っていくなかで、チームが一つになっていくのを感じましたし、これが勝てるチームなんやっていうのを感じられたのもあのチームだけでした」

 卒業後間もなく「日本一になるあの快感をもう一度味わいたくて、そして学生時代勝てなかったジャパンカップに勝って真の日本一になるために」、石川県に軟式チーム「ダラーズ」を設立。
「野球への恩返しの意味も込めて、石川県に女の子たちが野球をできる環境を作りたいと思って活動しています」

優勝旗を持つ飯沼樹里さん

 最後は坂下さんの1つ下で、軟式チーム「千葉マリンスターズ」を立ち上げた飯沼樹里さん(02年卒。写真は優勝旗を手に入場行進)だ。飯沼さんは千葉県の出身ながら高校生のときに「ジャパンカップ」を見て、「やるからには一番になりたい。この大学で野球をやろう」と決めてはるばる石川県に進学した(当時同校は2連覇中)。

「野球の面白さ、勝つ喜び、全国制覇することの素晴らしさ、仲間の大切さ、努力は実るということを知りました。野球をずっと続けたいという夢や目標をもつことができたのも大学時代です」
 
 少年野球チームの監督でもある父、保さんとともに02年に千葉マリンスターズを創部し、また教員として赴任した千葉学芸高校では女子軟式野球同好会を作って、03年の高校生の全国大会(軟式)で優勝に導いた(飯沼さんの異動に伴い現在は廃部)。11年には「千葉マリンスターズYOUNG」も立ち上げ、千葉県に中学以降の女子野球環境を作っている。

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 92、93、96年と、全国大会にたった3回しか出場していない東京外国語大学野球部。しかしその創設者の福澤秋后(あきさ)さん(92年卒)の人生は、どんな強豪チームのOGにも負けないほど野球一筋でダイナミックだ。

福澤秋后さん

 野球経験はなくとも野球が大好きで、同校の男子硬式野球部のマネージャーになった福澤さんは、先輩に野球を教わっているうちに自分もやりたくなり、89年に女子軟式野球部を創部。指導は男子硬式野球部の先輩と、のちにフロリダの女子プロ野球チーム「フロリダ・レジェンズ」などでプレーする鈴木慶子さんが1年ほど担当した。
「偶然ですが、私が大学の生協に部員募集のポスターを張ったら、たまたま慶子さんがそこでアルバイトをしていて、それでコーチをしてくれました」

 91年にメンバーを率いてロシア遠征(ハバロフスク)を行ったことが、福澤さんの運命を決めた。

「遠征をしたのは、確かロシア語科の男子野球部の先輩からベースボール・マガジン社のロシア遠征の企画を聞いて、女子野球も同時に広めたいと思ったからだと記憶しています」
 もちろんロシアには昔も今も女子野球チームはない。そのため女子は少年野球チームを相手に試合をし、あとはソフトボールの試合をしたという。が、
「そのとき、両国の選手が楽しく交流しているのを見て、野球を通しての国際交流が自分の進むべき道だと思ったのです」 

 結局自身は魚津の全国大会には出場できなかったが、関東のリーグ戦で「日体大に大負けしたときに投球した経験から、どん底からでも這い上がる粘り強さと精神力を養うことができました」。

 次第に「自分の使命は女子野球の発展に尽くすことだ」というしっかりとした自覚ができ、卒業後は本格的な球団経営を学ぶために、オハイオ大学スポーツ経営大学院に留学した。

2011年秋のシカゴ戦にて。試合後、健闘を讃えあうメンバーたち

 95年、女子プロ野球チーム「コロラドシルバーブレッツ」(アメリカで40年ぶりに結成された女子プロ野球チーム。94~97年活動。2Aマイナーリーグ所属)の広報部に勤務。
 
 そこでセレクションを受けに来た鈴木慶子さんと再会するが、残念ながら鈴木さんは入団を果たせず、フロリダの女子野球リーグに新天地を求め、福澤さんは96年に日刊スポーツの大リーグ現地記者となり、伊良部秀輝、野茂英雄、松坂大輔などの記事を担当した。

 もちろん女子野球を忘れたことはなく、オハイオ大学やワシントンD.C.に女子硬式チームを立ち上げ、08年にはコロラドシルバーブレッツでの経験を生かして、オハイオ州コロンバスに2チームによる女子野球リーグ「コロンバス ウーマンズ ベースボール リーグ」を設立。主催者としてコーチとして選手として、女子野球の普及に奔走する日々だ。


 もう一つ忘れてはならないのが、同校女子軟式野球部のみなさんの、日本の女子硬式野球への貢献だ。実は95年、東京都の古美術商、故四津浩平さんが日本で初めて女子硬式野球大会「日中対抗女子中学高校親善野球大会」を開いた時、その大会運営を手伝っているのだ。

 のちに「女子硬式野球の父」と呼ばれるようになった四津さんが、当時、同校女子軟式野球部の実質的な監督を務めていたご縁だった。

 会場は東京都の福生(ふっさ)市営球場。その審判員の一人に上原芙美子さんの名前がある。また翌96年夏に開かれた「日韓親善女子高校硬式野球優勝大会」でも、水口知香さん、上原芙美子さん、越智幸子さんの3人の部員が審判員を務め、97年の「第1回全国高校女子硬式野球大会」では、水口知香さんが大会実行委員を務めた。
 水口さんは96年に四津さんと一緒に中国に野球の指導にも行っており、四津さんとの縁、浅からぬものがあるのだ。

 日本の女子硬式野球の黎明期を支えた人たちの中に、同校女子軟式野球部員がいたなんて、とても興味深い話である。

Photo by Nate Caplin

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 さて、5つの大学軟式野球部OGの物語、いかがだったろうか。このほかにも紹介しておかなければならないのが東海地方の大学女子野球の系譜だが、残念ながら草創期から現在までを知るOG指導者がみつからなかったため、大学チームとOGによる軟式クラブチーム成立の流れを紹介するにとどめたい。

 東海地方で一番早く女子野球チームを作ったのは92年創部の金城学院大学で、創設者は女子野球の研究でも知られ、全日本大学女子軟式野球連盟の理事長も務めた竹内通夫教授である。その後99年までに皇學館大学、愛知学泉大学&短大、椙山(すぎやま)女学園大学、中京大学、中京女子大学(現・至学館大学)に女子軟式野球部が誕生した。そして椙山と金城OGが軟式チーム「エイドス」を 、金城のもう少し若いOGが「愛知サンライズ」を、中京大学OGが「豊田スパンキーズ」を、皇學館大学OGが「三重スパークス」を作って女子野球の輪を広げていったという。

 東海地方にはその後も桜花学園大学、愛知医療学院短期大学に女子野球部が生まれ、あわせて8大学という、全国でも稀に見る大学女子野球王国を形成している。

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