女子野球情報 

関東の歴史と連盟

 関東を知れば見えてくる、現代女子野球の源流

第1章 関東女子軟式野球の特徴と連盟

ソフトボールのようなユニフォームも多かった

なぜ関東なのか  

 昭和50年代の女子野球ブームによって、関東、関西、北海道などにたくさんのチームができた(詳しくは「昭和50年代の女子野球ブームに迫る」を参照)。しかし、長年女子野球の取材を続けるなかで、現在の女子野球界ができるうえで大きな役割を果たしたのは、関東ではないかと思うようになった。

 たとえば、
●現在に続く女子軟式野球の組織的な流れは、昭和52年(1977年)11月に、神奈川県川崎球場で行われた小中学生の関東大会から始まったこと。
●現在の全国組織「全日本女子軟式野球連盟」が関東からの呼びかけに応じて作られたこと。
●平成7年(1995年)に始まる女子硬式野球の歴史は、関東の女子軟式野球との密接な関わりの中から生まれたこと。

 つまり関東の歴史を調べることは、現在の女子野球界の成立過程を明らかにすることになると考え、取材することにした(63年3月に現在の「関東女子軟式野球連盟」ができるまで)。
 すでに関係者の多くが亡くなり、パンフレットも一部しか残っていないために全貌は明らかにできなかったが、基礎研究として書き残しておきたい。

※女子硬式野球の歴史も関東から始まったが、その成立過程は『女子硬式野球物語 花咲くベースボール』で詳しく紹介したので、そちらもぜひお読みください。
※文中の女子野球とは、すべて女子軟式野球のことを指します。
※当時のチーム区分で「一般」は高校生以上、「少女」は小学生、中学生、または小中学生チームを意味します。

関東女子野球の特徴

■全国一のチーム数。特に東京と神奈川がリード

 昭和50年代の女子野球チームは圧倒的に関東に多く、特に東京都と神奈川県に多かった。
 たとえば昭和53年(1978年)8月の第1回全国大会(日本女子野球協会主催)の出場チーム数は、他の県がせいぜい1~2チームなのに対し、東京都が少女の部に14、一般の部に3、神奈川県は少女の部に4の、計21チームが出場している。

説明

 図は53年2月に軟式の全国組織「日本女子野球協会」ができてからの11年間、大会などに参加したクラブチームの数だ(一般の部と少女の部の合計。1球団から複数参加している場合は、参加した数だけチーム数に加えた)。
 ピックアップした大会などに一貫性がないのでいいデータとはいえないが、使える記録が少なかったため、お許しいただきたい。

 昭和58年秋ごろ日本女子野球協会が消滅してから、全国の女子野球チームは次々に消えていったが、関東だけはその後も20チームぐらい活動していたのだから驚く。もし関東のチームが他の地方と同じように1、2チームになっていたら、女子野球の歴史はずいぶん変わっていたのではないだろうか。

 しかし60年代に入るとさすがに減り、63年3月に、関東の2つの女子野球組織(後述)が合併して「関東女子軟式野球連盟」ができたときには、両方の加盟チームを合わせても14チーム(一般+少女)しかなくなっていたのである(以下の第1回春季関東大会の記録より)。

「第1回女子軟式野球春季関東大会」(関東女子軟式野球連盟主催)

パンフレット表紙 トーナメント表
※資料提供/川越宗重(関東女子軟式野球連盟会長)

その他の関東チーム

 手元にある11年間のパンフレットや資料から、活動時期は違うが、以下の名前を拾うことができる。
群馬県/前橋中央レディース、前橋中央ヤングレディース、レッド朝倉(いずれも前橋市)、高崎ブルーヤンキース(高崎市)
埼玉県/大宮レディドラゴンズ、大宮レディース(共に大宮市)、鳩ヶ谷レディース(鳩ヶ谷市)、跡見学園女子大学「バイオレッツ」(新座市)
茨城県/アップルズ(北相馬郡)、日立レッズ(日立市)
千葉県/柏トライスター(柏市)

■日本女子野球協会との蜜月と反発

 関東は、良くも悪くも日野晴雄氏率いる軟式の全国組織「日本女子野球協会」との縁が深かった。

54年4月、協会が開いた春季関東大会。表紙のデザインが全国大会と同じだ

 まず蜜月。関東の女子野球は53年(1978年)2月の協会設立後、春の関東大会、夏の全国大会、秋の関東大会という協会が敷いたレールに乗って広がった。そしてそれらの運営を担ったのが現場の指導者たちだ。

「緑スネークス」(横浜市)の元代表、柳田富志男さんによれば、第1回全国大会の役割分担は、大会に先立って東京都清瀬市で行われた大会(おそらく53年4月の第1回春季関東大会)のあとに、参加チームの指導者たちが相談して決めたという。

 しかし54年の第2回全国大会(埼玉県開催)前後には、早くも方向性の違いを感じて協会と距離をおく指導者たちが出てきた。方向性の違いとは、協会がJBBSの野球教室に選手を誘うなど、大会を商売の道具と考えていたのに対し、現場の指導者たちはボランティアで女子野球を盛り上げようとしていたことだという。

54年11月、柳田さんたちが初めて開いた関東大会

 反発派の先頭に立ったのが先の柳田さんだ。協会のやり方に疑問をもった彼は、第2回全国大会が終わると関東の多くのチームをまとめて「関東女子野球実行委員会」を立ち上げ(半年後には「関東女子野球連盟」と改称)、その年の秋から、協会が主催していた関東大会を自分たちで行うようになった。

 一方、東京都の一部のチームはあくまでも協会のほうを向いて活動していたが、協会は関東に興味を失ったのか、これを放置。リーダー不在に陥った彼らは、事態を打開するために、56年ごろ「日本女子野球東京都協会」を発足させた。

 肝心な日本女子野球協会は、関東への興味を失った(居場所を失った?)昭和55年以降、北海道や関西の女子野球関係者と全国大会を開催し、再び関東で主導権を握ることなく、昭和58年(1983年)8月の奈良県の全国大会を最後に消滅した。

■女子硬式野球との密接な関わり
 
 戦後まもなく、昭和25年(1950年)に関東で始まった女子プロ野球は、ノンプロ野球に移行して46年に消滅した。
 しかしその後も選手たちの野球に対する熱い思いは消えず、 昭和53年、三共レッドソックスやサロンパスなどでプレーした近藤信子さんが「東京スターズ」を作り、元わかもと製薬の鈴木聡子(旧姓・富岡聡子)さんや高橋町子さんが「ブルーエンゼルス」を立ち上げて、関東大会などに出場。平成に入っても活動していた。

 彼女たちはフジテレビが53年3月に作ったタレントチーム「ニューヤンキース」を見て、「私たちのほうが上手い」と言って活動を再開したといわれている。すでに40代に入っている人も多かったが、「他のチームとよく交流していたし、野球が上手かったから、みんな刺激を受けていましたよ」と柳田さん。

 その彼女たちがサポートしたのが、のちに「女子硬式野球の父」と呼ばれた四津浩平(よつこうへい)さんだ。四津さんは平成7年(1995年)、東京都福生(ふっさ)市で「日中対抗女子中学高校親善野球大会」を開催して女子硬式野球の扉を開いたが、そのとき、手弁当で審判を務めたのだ。

 女子軟式野球クラブ(東京ウィングスなど)や大学女子軟式野球部の人々も、四津さんに頼まれてスタッフとして大会を支えた(平成10年の第2回全国高等学校女子硬式野球大会ごろまで)。

 一方、たった一人で女子硬式野球への道を切り開いた軟式野球選手もいる。東京都のクラブチーム「町田スパークラーズ」の鈴木慶子さんである。鈴木さんは日本人として初めてアメリカの女子プロ野球リーグでプレーしただけでなく、平成11年(1999年)に、史上初の日本代表チームを編成してアメリカに遠征。「女子野球日本代表」というカテゴリーを作った(参考/シリーズ指導者たち「鈴木慶子」)。

 女子硬式野球の歴史は、関東の女子軟式野球との密接な関わりの中で作られていったのである。

■大学女子野球チームの活躍と大学連盟の存在

 最後に挙げておきたいのは、大学女子軟式野球チームが、きちんとした連盟を作って活発に活動していたことだ。

 一番初めにできたのは、昭和52年(1977年)春創部の跡見学園短期大学の「エラーズ」(東京都)だ。小中学生の女子野球ブームが始まったのと同じタイミングである。翌53年には跡見学園女子大学(埼玉県)に「バイオレッツ」ができて、お互いに練習試合を重ねていた。

 60年ごろには産業能率短期大学、東洋英和女子短期大学(ともに東京都)にもチームができ、62年に富山県魚津市で第1回となる大学の全国大会が開かれると、その年の秋、東都大学軟式野球連盟の働きかけで、「関東大学女子軟式野球連盟」が発足。平成8年にリーグが2つに分かれるまで、男子軟式野球連盟が関東大会を後援していた。
(参考/大学女子野球事始 第1章

 前段で触れた四津浩平さんを助けた大学女子軟式野球部というのは、淑徳大学女子野球部(千葉県、62年ごろ創部)と、東京外国語大学女子野球部(東京都、平成2年ごろ創部)のこと。平成に入ってから、四津さんが両校で臨時監督をしていたご縁だった。

関東の主な女子野球組織(昭和53年から62年)

 大まかに言って2つの時期、2つの組織に分けられるようだ。

関東女子野球連盟の勧誘チラシ。あだち充さんがボランティアでイラストをかいてくれたそうだ。昭和50年代後半

①日本女子野球協会が関東で勢いをもっていた53年2月から54年夏ごろまで
 全国組織と支部という縦の関係の組織(神奈川県支部)があった。おそらく東京都支部もあったと思われる。

②協会への反発が生まれた54年秋以降
 神奈川を拠点とする「関東女子野球連盟」(54年の「関東女子野球実行委員会」が改称)。神奈川、東京、その他の関東チームが加盟。
 東京都の一部のチーム群による「日本女子野球東京都協会」(56年ごろ発足)

 が存在した。東京都町田市のオリオールズレディースのように、両方に加盟することも可能だったようだ。

 この2つの組織が63年3月に合併してできたのが、現在の「関東女子軟式野球連盟」だ。日本女子野球東京都協会の川越宗重事務局長が「女子野球を発展させるために一つにまとまろう」と、関東女子野球連盟の藤原元信会長に話を持ちかけて実現した。

 川越さんは関西や北海道の女子野球関係者にも同じことを呼びかけ、平成2年(1990年)、現在の全国組織「全日本女子軟式野球連盟」が誕生した。

昭和52年から63年の、関東女子野球の年表

説明
※写真提供/柳田富志男

取材協力/柳田富志男(元関東女子野球連盟会長)、宮下慎一郎(元オリオールズレディース代表)、長岡正己(元オリオールズレディース監督)、鈴木慶子(元町田スパークラーズ代表兼監督)、川越宗重(関東女子軟式野球連盟会長)、江野沢浩市(元前橋中央レディース監督)、神戸知子(前橋中央レディースOG)、学校法人跡見学園ほか

参考資料/昭和53年、54年、57年の「女子野球日本選手権大会」および、58年の「日本女子軟式野球選手権大会」のパンフレット、「第2回女子野球春季関東大会」(54年)ほか、関東開催の各種大会パンフレット、『オリオールズの10年』(町田オリオールズ)、『ジュニアベースボール』53年10月号、11月号(ベースボール・マガジン社)、『ガッツ ベースボール』53年8月球夏特別第5号(JBC出版局)、『軟式野球 エラーズ史』(跡見学園所蔵)、「第4回関東女子野球総会」(57年3月、関東女子野球連盟)、「ボク顔負け 少女野球」(神奈川新聞52年11月7日)、「初の女子野球神奈川大会」(毎日新聞53年11月4日)、「県大会へ10チーム 増えましたお嬢さん球団」(神奈川新聞54年2月25日)、「ニューヤンキースが連覇」(日刊スポーツ57年8月23日)、「男子顔負けのハッスル」(産経新聞58年8月29日)ほか

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