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沖縄初の女子チームの記録と沖縄女子野球の歩み

沖縄女子野球のルーツ「キャップス・レディース」の記録

 沖縄に初の女子軟式野球チーム「キャップス・レディース・ベースボールクラブ」ができたのは、1994年(平成6年)4月ごろのこと。
 小学生のとき野球がしたくても環境がなかった女性が、社会人になってから「やっぱり野球がしたい」という一心で設立した。選手は新聞のサークル募集欄を利用して集め、事務員、看護士、美容師といった仕事をもつ主婦をはじめ、たくさんの社会人が応募してきたという。
 設立者の夢はいつか大人から小学生まで女子チームができることだったそうだ。

 当時女子野球チームが活動していたのは関東、関西、北海道だけで、四国(※)、九州にもまだチームがなかったことを思えば、本土から遠く離れた沖縄県に独自に女子チームが誕生したことは特筆に価する。

 その背景にあるものとして沖縄の高校野球熱が考えられる。というのも90年、91年と、名将・栽弘義監督率いる沖縄水産高校が2年連続夏の甲子園で準優勝し、それをきっかけに沖縄の野球熱が一気に高まっていたからだ。

沖縄初の女子チーム「キャップス・レディース」の皆さん。96年8月

 女子チームの誕生を知ってもらいたくて創設者が沖縄県野球連盟那覇支部に挨拶に行くと、那覇支部は女子チームの誕生を喜び、マスコミに紹介したり男子チームと試合を組むなどして、大々的にPRした。

 キャップス・レディースは翌95年に那覇支部の「(一般男子)C級の部」に加盟し、唯一の女子チームとして支部大会で男子と試合をするようになった。

 一方、那覇支部やマスコミから女子野球の全国組織「全日本女子軟式野球連盟」(以下、全女連)の存在を教えてもらった創設者は、早速事務局に連絡をとった。すると、まだ九州にも女子チームがなかった時代とあって全女連は大変喜び、全国大会への出場を勧めたという。

 かくして95年8月、九州沖縄勢として初めて全国大会に出場したが、全国大会優勝経験のある強豪、北海道の「旭川レディース」と1回戦で当たり、敗退した。(その後98、99、04年にも全国大会に出場したが、残念ながらいずれも1回戦で敗退)

 キャップス・レディースは、その後もコンスタントに活動を続けたが、08年(平成20年)ごろに活動を休止した。

※愛媛県には松山ヤンキースがあり、79年(昭和54年)、80年(55年)に関西で行われた女子大会に参加した記録があるが、キャップス・レディースが誕生したころには消滅している。

沖縄県野球連盟の庇護のもと、拡大した女子野球

 キャップス・レディースの活躍は野球好きの女性たちの心に火をつけ、たくさんの人たちが入団したが、集まった選手はソフトボール経験者もいればそうでない人もいて、実力や意識にかなり差があったようだ。結局気の合う者同士が新たなチームを作っては独立していき、結果として沖縄の女子野球の底辺が広がっていった。

 97年には沖縄本島に7チーム(※)が活動するまでになり、この年4月、連盟のバックアップのもと、沖縄初の女子野球大会「第1回沖縄県女子野球大会」(於・佐敷新開球場)が開かれた。
 またそれを機に那覇支部に「女子の部」ができ、女子チームの多くは県野球連盟那覇支部所属チームとして男子や女子の大会に参加するようになったのである。

 実は全国的に見て、これは大変珍しい出来事である。というのも女子野球の認知度が低かった当時、都道府県の野球連盟が女子チームを受け入れることなど皆無だったからだ。  
 しかも沖縄の連盟は98年7月に全女連沖縄支部ができたときにもこれを容認し、全女連との二重登録を許している。かつてキャップス・レディースに全女連の存在を教えたのが他ならぬ連盟だったこともあるだろうが、この寛容さがあったからこそ沖縄に女子野球が定着したといえるだろう。

 こうして98年以降、沖縄の女子チームの多くは、県野球連盟那覇支部と全女連という2つの組織に所属して活動を続けていくことになった。

※「キャップス・レディース」「ブルームス」「レッドコメッツ」「メイプルズ」「クリードプリンセス」「パランダ」「銀ちゃんず」の7チーム。

06年、県野球連盟から離れ、女子独自に大会運営

 ところが06年4月、那覇支部が突然、「女子は女子だけでやってくれ」と言って、女子の部を廃部にしてしまった。主な理由は那覇支部が優先的に使っていた「奥武山(おうのやま)球場」を「沖縄セルラースタジアム那覇」として建て替えることになったからだと那覇支部の関係者は言う。

沖縄女子野球に転機をもたらした球場の建て替え

 沖縄の球場の数は決して多くはない。そのためメイン球場を失って、これまでどおり支部の全大会を運営するのが難しくなったのである。女子の部を廃したのは連盟としては苦渋の決断だったらしい。

 いずれにせよこの出来事は沖縄女子野球の転機となった。というのも、女子チームの役員たちがなんとかして女子野球を盛り上げようと定期的に集まっては会議を開き、自分たちの手で大会を運営するようになったからである。

 今まで那覇支部がやってくれていたグラウンドの手配はもちろん、大会要綱や運営の仕組み作りも一から自分たちの手で行った。問題は審判員だったが、那覇支部との話し合いの結果、支部から派遣してもらえることになったという。

 こうして運営は女子、ジャッジは那覇支部から派遣された審判員という、現在の沖縄の女子大会のスタイルができ上がった。

 その後沖縄の軟式チームは数の増減はあるものの着実に活動を続け、全女連の全国大会にも毎年チームを送り出している。
 2010年には沖縄初の硬式チーム「ティーダバル」が誕生し、11年には「美ら沖縄」(学童~高校)も誕生するなど、沖縄の女子野球は時代を映しながら多彩さを増している。

※2013年、沖縄にあるチーム
 軟式一般/「WESTY」「VEGA」「鳥光」 
 軟式U18/「美ら沖縄」「ドリームエンゼル」「天顔フェニックス」
 硬式一般/「ティーダバル」

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