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シリーズ 指導者たち⑨

濱本光治 (「平成国際大学女子硬式野球部」監督)

何の実績もないチームだったからこそ
心に火がついたんですよ、やってやろうじゃないかって

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Mitsuharu Hamamoto

昭和31年、広島県呉市生まれ。崇徳高校硬式野球部時代に投手として春の広島県大会で優勝し、中国大会でも優勝。千葉商科大学進学後は武道にのめり込む。佐藤栄学園・埼玉栄高校に英語科教諭として奉職し、同校硬式野球部コーチに。昭和57年、花咲徳栄高校の開校に伴って異動し、硬式野球部、空手道部監督を経て平成13年、女子硬式野球部監督に就任。19年から平成国際大学女子硬式野球部監督に。現在関東女子硬式野球連盟理事長、全国高等学校女子硬式野球連盟代表理事。

(文中敬称略)

指導の手腕を買われ、花咲徳栄高校女子硬式野球部監督に

 埼玉県の花咲徳栄(はなさきとくはる)高校に女子硬式野球部ができたのは平成9年(1997年)5月のこと。日本で最初に女子硬式野球部ができた鹿児島県の神村学園に遅れること1カ月、姉妹校の埼玉栄高校女子硬式野球部(当時は同好会)とほぼ同時の創部だった。

 監督就任の要請はある日突然来た。
「平成13年、45歳の時のことでした。新学期早々、佐藤栄太郎理事長と佐藤照子校長に呼ばれまして、『4年間一度も勝っていないから強化してくれない?』と言われたんです」

 高校時代に野球で活躍した濱本は、埼玉栄高校では男子野球部コーチを、花咲徳栄高校では男子野球部の監督を任され、前者は就任4年で県大会ベスト4に導き、後者は6年で春の県大会で準優勝させた。また大学時代に修めた武道の経験を生かして空手道部の監督になると、団体組手で初のインターハイ出場を果たし、ベスト8に。その手腕を買われての起用だった。

平成国際大学の練習を見守る(花咲徳栄高校の室内練習場にて)

 たしかに同校女子硬式野球部は、創部以来、公式戦すべて20点差以上のコールド負けという不名誉な記録を更新し続けていた。はっきりいって弱小チーム。
「1週間ぐらい悩みました。いえ、弱かったからじゃありません。当時僕はもう野球はやりきったと思って部活動から離れ、家族と旅行したり農作業にいそしんだり、自然と戯れることを楽しんでいたからです(笑)」

 なぜ引き受けたのだろう。
「チームに何の実績もなかったからです。結局僕の原点というのは『何もないところ』なんですよ。母校の崇徳高校も埼玉栄や花咲徳栄高校も、当初は無名で弱かったですから。何もないところからどう作るか、どう進化させていくか、それが面白かったんですね」

「何もないところ」は突きつめれば原爆に行き着くという。
「僕は原爆のあと10年たって生まれたんですが、子どものころはその傷跡がまだ至るところに残っていたんです。僕自身バラックの家で育ちましたし。でもそんな状況から広島の人たちは雄々しく立ち上がった。その情熱が自分の潜在意識に入っているんです。
 何もないところに立つと心に火がつくんですよ、『やってやろうじゃないか』って(笑)」

 その負けじ魂が背中を押し、世間的には無名で何の評価もない女子硬式野球の世界に足を踏み入れた。

トップレベルのチームを作る、情熱と心技体の理念

 花咲徳栄女子硬式野球部の状況は想像以上に厳しかった。
「キャッチボールもちゃんとできない子が多くて、なかにはフライを捕り損ねて顔面で受け、直ちに車で運ばれた選手もいました」
 もちろん優勝なんて夢のまた夢。それが3年目から1けた対1けたの試合ができるようになり、6年目の平成18年春の選抜大会では、遂に強豪・神村学園を破って初優勝したのである。

ベースランニングのタイムを測る。走ることは辛いからこそ大事にしている練習だ(平成国際大学女子野球部)

 いくつもの野球部をゼロからトップクラスのチームに育て上げる、その秘訣はなんなのだろう。
「一番は情熱なんですよね。それがあるから継続する力とか方法論が生まれてくる。
 子どもたちにとっても同じです。私の指導の柱に心技体という理念があるんですが、特に心(気)が育つことによって技も体も成長すると思っています」

 そのため男子野球部の指導者だった約25年前から、当時はまだあまり知られていなかったメンタルトレーニングを導入。そのうえでトレーナーをつけたウェートトレーニング、栄養学に基づいた栄養管理を行い、科学的な見地から体を育てた。

「技術面ではレベルに合わせた練習というのをやっています。たとえば僕が一番大切にしているのはキャッチボールなんですが、どうやったらボールが投げられるかという段階から塁間の27.43メートルが投げられるようになるまでを5つのレベルに分け、そのレベルに応じた練習をします。そして1つのレベルがクリアできたら新しい課題を与えて次のレベルに入る。守備も打撃も基本動作を覚えるレベル1から始めて、最終的に自分で状況判断して動けるようになるレベル5までもっていきます。

 昔と違って今の選手はレベル3とか4から始まることが多いですけど、スタート地点がどこであれ、ステップバイステップの練習法は同じです。選手間のレベルのバラつきは全体練習の後、個人練習でフォローしています」

 もう一つ勝つために大切なのが、重要な大会に照準を合わせた調整だという。男子なら夏の県大会、女子なら3月と8月の全国大会。その他の大会や試合はチーム作りの機会ととらえ、勝敗にこだわらない。「その調整がうまくいったからこそ、花咲徳栄女子硬式野球部は7年連続で全国大会決勝まで行けたのだと思います」。
 

連盟から大学チームまで。もち前の行動力で環境作りを推進

 濱本の「やってやろうじゃないか」魂は女子硬式野球の環境作りでもいかんなく発揮された。
 花咲徳栄高校の監督になった翌平成14年、埼玉栄女子硬式野球部の斎藤賢明監督らとともに関東女子硬式野球連盟を設立し、理事長に就任。関東大会を整備するだけでなく、17年にはOGの受け皿であるクラブチーム「ハマンジ」も創設。22年には「全国女子硬式野球ユース選手権大会」(18歳以下の全国大会。以下、全国ユース)を立ち上げ、高校生の全国大会では大会実行委員長を務めるなど、先頭に立って環境作りを押し進めた。

大会実行委員長として優勝旗を手渡す(平成24年の全日本ユース表彰式)

 必要だと思うアイディアはすぐに実行に移す、その行動力には驚かされるが、
「たくさんの学校行事や記念イベントを手がけてきましたから、時間と場所と予算はパパッと頭の中に浮かぶんです(笑)」

 平成19年、佐藤栄学園系列の平成国際大学に女子硬式野球部ができたのも濱本の力による。それまで大学の女子硬式野球環境はゼロに等しかったが、平成18年、尚美学園大学(埼玉県)に女子硬式野球部が誕生。大学でも野球が続けられることを知った花咲徳栄高校の選手たちが、「平国に女子硬式野球部を作ってください」と頼みに来たのがきっかけだった。

「尚美にばかり人が行っては大学野球の発展はない」と考えていた濱本は、すぐに理事長に相談。すんなり理解が得られて平成国際大学女子硬式野球部が誕生し、濱本はその監督に就任した。専用グラウンドもない、設備もない、いつものようにゼロからのスタートだったが、花咲徳栄のグラウンドを高校生と時間をずらして使うなど、知恵を絞って大学野球部を成立させた。

 平成国際大学に女子野球部ができたことによって大学硬式野球界には健全な競争意識が生まれ、2012年現在、女子硬式野球部をもつ大学は7つになっている。

高校生と大学生。心がけている指導のあれこれ

 硬式軟式問わず広く女子野球界を見渡しても、高校から大学の監督になった指導者は濱本しかいない。その指導のノウハウにはどんなものがあるのだろう。まずは高校生と大学生の指導の違いについて。

指導の根底にあるのは「親心」

「やっぱり高校生はいちいち指示を出してあげないといけないところはありますね。それと高校生のほうが何か教えても砂地に水をまいたようにサーッと吸い込んでいく。純粋ですよね。冗談を言ってもウケてくれるし(笑)。

 大学生は大人になってきますから、言葉の入っていく角度(受け止め方)が人によって違います。でも大学まで来て野球をやろうというだけあってみんな積極的に自分で考えて行動しますから、ポイントポイントで指示を出すようにしています」

 共通して心がけているのは叱り方とほめ方だ。
「叱るときっていうのは的を外すんです。たとえば失敗すると本人が一番わかるわけじゃないですか。それを『お前は何でそんなことをするんだ』と的を射てしまうと、もう立ち直れないんです。だから失敗したときは『なんだ、もう少しがんばってみればよかったな』というふうに的を外すんですね。面白いんですよ、うまくいったときは叱っていた相手がニコッとするんです。ホッとするんでしょうね。

 逆にほめるときは的を外しちゃけないんです。というのは本人には私はこれがすごく上手なんだ、ほめてほしいんだという気持ちがあるわけです。それに気づかずに違うことをほめると、あ、この人はわかっていないなと思われてしまう。そうじゃなくて、たとえば『お前はそういうことをする人間じゃないんだよな。お前は本当はこうなんだよな』と的を射てあげると、そこから信頼関係が生まれるんです」

 教え子の一人、元日本代表の高島知美ともそうやって信頼関係を築いてきたという。
「あの子は実はすごく不器用なんですよ。たとえば紙を折る作業をすると一番遅いのは彼女なんです。でもそれを『お前、遅いなあ』って言ったらもうアウトなんです。だからいつも的を外して声をかけるようにしていました。

高島知美選手は名捕手として活躍

 
 それに不器用ということは必ずしも悪いことじゃないんです。よく言うでしょ、何でもそこそこできる人は大成しないけど、不器用な人間は何かを得たときに確実にものにするって。高島もそうでした。彼女は栃木県の佐野シニアで男子と一緒に野球をしていたので入ってきたときからとても上手でしたけど、不器用だったからこそコツコツ努力してうまくなったんです」

 濱本という良き理解者のもと、安心して不器用でいられたことが現在の高島を作ったのかもしれない。

 さてこうしたノウハウもさることながら、濱本が一番大切にしているのは「親心」だという。
「自分がもしこの子の親だったらどうするんだろうと思いながら接しています。たとえば10月の女子野球ジャパンカップには私が車を運転して行ったんですが、帰ってきたときはどしゃぶりの雨だった。独身のころなら駅前で解散していたんですが、一人ひとり家まで送り届けました。大変でしたよ(笑)。でもそういうことができるようになったのは、自分が年齢を重ねて成熟してきたからなんでしょうね」

目的は野球を通して心を育て、人を作ること

「僕は野球を教えたくて教師になったわけじゃないんです。貧乏学生だったころに世界中を旅して広めた見聞を、授業で伝えたくて教師になったんです。
 インドでは乞食が徘徊し、バラックが建ち並び、子どもたちが恥も外聞もなくお金をせがんできました。あまりにも衝撃的な体験でしばらく虚脱状態になるほどでしたが、そんななかで、自分は今何をすべきなのか毎日毎日考え続けました。

「知育、徳育、体育、食育。そういうことをきちんとやったうえでの野球なんです」

 たった一つのボール代で1カ月暮らす人々が大勢いるインドに比べ、なんと日本は幸せな国なんだ。それにもかかわらず物質的に恵まれないインドの子どもたちの目は澄み、豊かな日本人の目は澄んでいない。そうだ、僕は自分の国を愛し、広い心をもち、グローバルな考え方のできる人間を育てることに全身全霊を傾けよう。そう心に誓ったんです。

 野球はその手段です。何よりも大切なのは日本一になることではなく、それを目指すなかで自分の人格を高めていくことだと思うんです。
 野球には机上では学べないものがいっぱいあります。キャッチボールは相手の立場になってプレーすることの大切さを教えてくれます。ピッチャーが苦しんでいるときには励ますことの大切さを教えてくれます。絶体絶命のピンチのときには明るさと動じない心を、ここ一番の勝負のときには思い切りの大切さを、グラウンド整備のときには陰で支えてくれる人たちや仲間への感謝の気持ちを教えてくれます。

 だから私から見ると高校にしろ大学にしろ、勝つことを最優先しているアマチュア野球は何の価値もないんです。現役として野球ができる時間というのは短いですよ。その後の人生のほうが長いんですから、引退したあと抜け殻のようになったり犯罪に走ったりするような人を作ってはいけないんです。

 人間力がつくとある程度野球力もついてきますから、優先すべきは心を育て、人を作ることです。それができたうえでの野球の戦略戦術なんです」

ライフワークになった女子硬式野球普及の旅

「あれがないこれがない、だから勝てないというのは違います。気持ちさえあれば強くなれるんです」

 平成21年以降、濱本は香港にいく度となく野球の指導に行っている。埼玉に試合を見に来た香港の選手たちに、「私たちには指導者がいない。野球を教えてくれませんか」と頼まれたからだという。

「聞けば国際試合でなかなか勝てないというんです。43-0とか24-1とか、とにかく惨敗なんです。で、重なったんですよ、僕が花咲徳栄の監督になった時のことと(笑)。それで平成国際大学と花咲徳栄高校の選手を連れて自費で香港まで行きました」

 しかし香港選手の実力がわからない。そこで早速ノックをしたら、誰一人として捕れなかったという。
「思いましたよ、やってやろうじゃないかって(笑)」
 この時は3日間にわたって普段からできる練習方法をしっかりと教え込み、翌22年も2回指導に赴いた。

 香港チームは濱本の教えを守って練習を重ね、23年2月、ワールドカップに次ぐ位置づけの女子野球の国際大会「フェニックスカップ」で決勝に進出。鈴木慶子率いる日本の選抜チーム「Far East Bloomers」に負けはしたが、堂々の準優勝に輝いた。

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「すごいでしょ(笑)。一生懸命練習すれば野球には奇跡ってあるんですよ」

 23年、濱本は国内でも女子硬式野球普及の旅に出るようになった。きっかけは東日本大震災だった。
「映像を見た時、原爆の時のガレキと完全にオーバーラップしましたね」
 数十年ぶりに見た「何もない」光景は、またしても濱本の心に火をつけた。

 4月、大学のある加須(かぞ)市に避難している福島県双葉町の人たちのために野球教室を開催。8月、東北の中学生たちを招いて混成チーム「がんばろう東北」を結成し、全日本ユースに参加させた。秋には岩手に遠征して地元シニアと交流戦を行い、24年には岩手と青森で女子野球の現状と東北の未来について熱弁を奮った。その甲斐あって東北にも遠からず女子硬式チームが生まれる可能性が出てきたという。

 普及の旅は拡大し、25年には秋田、山形、北海道、新潟に行くことが決まっている。すべて自腹を切っての活動だが、「何もないところ」を耕し、種をまき、成長を支援する喜びは何ものにも代え難いという。

 濱本の情熱と行動力によって女子硬式野球は確実に底辺を広げ、実り多き世界に変わりつつある。

何人もの日本代表やプロ野球選手を出した平成国際大学女子硬式野球部
 

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