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国文学者の活躍とネットワーク

 特集 大学女子野球事始 

第1章 国文学者たちの活躍と、ネットワークの形成

※文中の「女子野球」はすべて女子軟式野球を意味します。
※日本初の大学女子硬式野球部は、平成17年(05年)創部の中京女子大学(現・至学館大学)硬式野球部です。

日本初の大学女子野球チームと思われる、跡見学園短大の「エラーズ」。写真は6期生と7期生。昭和58年

日本で一番早くできた大学女子野球チームは?

 女子野球の歴史に詳しい人は、昭和55年(1980年)創部の神戸山手女子短期大学(現・神戸山手短期大学。以下、神戸山手短大)の「マンヨーズ」と答えるかもしれない。『女たちのプレーボール』(桑原稲敏著、風人社)という本に「全国初の女子大生チーム」「最古参(の大学チーム)」とあるからだ。その記述を踏まえて、全日本女子軟式野球連盟も、ホームページの「女子野球のあゆみ」のページで初の大学チームとして同校の名前を挙げている。

 しかし、長年女子野球の取材を続けるうちにわかったのは、日本初の大学女子野球チームは、昭和52年(77年)創部の跡見学園短期大学(東京都文京区。以下、跡見短大)の「エラーズ」らしいということだった。その誕生は文京区の跡見学園図書館に所蔵されている活動記録『軟式野球 エラーズ史』(佐野親夫著)に明記されており、神戸山手短大より3年早い。

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昭和50年代の女子野球ブームに迫る」で紹介したように、昭和52年(1977年)という年は、巨人の9連覇による野球熱や漫画『野球狂の詩』のヒットなどを背景に、空前の女子野球ブームが始まった年だ。 
 大学女子野球の調査で年代を遡っていくうちに、コツンとこの年に行き当たって、「そうか、大学女子野球もこの年にスタートしたのか」と納得するものがあった。

 そしてエラーズを生んだ「時代」は、翌53年(78年)に同学園の四年制大学、跡見学園女子大学(埼玉県新座市。以下、跡見女子大)と、大阪女学院短期大学(大阪市)にもチームを生み、55年には神戸山手短大に、56年に洗足学園魚津短期大学(富山県魚津市。以下、魚津短大)にチームを生むのである。

 そこにいったいどんな物語があったのか、そしてどんな経緯で61年(86年)8月の全国組織「全国大学女子軟式野球連盟(現・全日本大学女子野球連盟)」の誕生につながるのか、みなさんと一緒に見ていきたい。
 なお跡見短大「エラーズ」と跡見女子大「バイオレッツ」の物語は、第2章で詳しく紹介したので、そちらをご覧いただきたい。

※この記事では、エラーズができた昭和52年(77年)春から、大学の全国組織ができる直前の61年(86年)7月までを「大学女子野球草創期」と呼ぶことにする。

大阪女学院短大の記録と、幻の近畿大学女子リーグ

 神戸山手短大より2年も早く、大阪女学院短大に女子野球チームができていたと聞いて、驚いた人も多いだろう。結論からいえば、このチームはのちにできる富山県魚津市の全国大会に一度も参加していないため、関西以外ではその存在があまり知られていないのだ。

 しかし、54年5月21日付け読売新聞(夕刊)の記事「ウチら短大野球部」から、創部の状況を知ることができる。

 発足は53年5月ごろ。まず同好会としてスタートし、54年春に野球部に昇格したという。顧問は松木真一助教授(哲学専攻、34歳)だ。
 記事の書き出しには、「少女野球チームが西日本各地に誕生しているが、今度は大阪の女子短大に野球部が発足した」とあるから、昭和50年代の女子野球ブームに背中を押された新聞社が、発足1年後のチームを取材したことがわかる。

 英語科2年の3人の学生が、巨人の王、張本、阪神の掛布の打撃フォームをふざけて真似しているうちに、「あれ? 私らでもよう打てるやんか。本格的にやりたいわ」となってメンバーを集め、新入部員が入ったことから、学友会に「部昇格運動」を展開し、やっとのことで承認されたという。

 顧問の松木助教授は関西学院高等部で軟式野球の経験があり、「他大学にも働きかけ、将来近畿地区の大学女子リーグを作っていきたい」と張り切っていたという。しかし残念ながらその記録は見つけられなかった。
 果たして本当に近畿大学女子リーグはできたのか。松木先生にコンタクトを試みたが叶わなかったため、真相はわからない。
 
 同校ホームページには平成30年(18年)2月現在、野球部の自己紹介が載っており、年1回、大学スタッフチームと対抗戦をしている、とあるが、教務課によると、チームは平成21年(09年)まで活動していたが、現在はないとのこと。もしかすると松木先生が関西学院大学に転任したために(年月は不明)、活動が低調になってしまったのかもしれない。

慶應大学大学院チームのバッテリー物語

 昭和55年春創部の神戸山手短大「マンヨーズ」と、56年4月創部の魚津短大「フィッシャーズ」は、実は慶應義塾大学の人脈の中から生まれている。

 前者を作ったのは藤原茂樹先生(当時は専任講師。平成30年現在、慶應義塾大学名誉教授)、後者を作ったのは春日利比古(としひこ)先生(当時は専任講師。平成29年3月に芝中学・高校校長を退官)で、2人は慶応義塾大学大学院国文科の先輩と後輩という間柄(春日先生が3歳ほど年上)。しかも同院の草野球チームで、藤原先生はピッチャー、春日先生はキャッチャーを務めていた。

 2人の共通の師である同校の故・池田弥三郎教授(国文学者)は、「二人がバッテリーを組んでいた頃の慶應の国文科は、その黄金時代(?)だった」(『魚津だより』)と回想しているほど、2人は息の合った仲間であり、良きライバルだったと思われる。

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 女子チームの創部は、55年、藤原先生が神戸山手短大に、池田教授と春日先生が魚津短大に赴任したことに始まる。
 藤原先生によると、「マンヨーズ」は学生たちに頼まれて作ったものだという。ちなみに「マンヨーズ」は、藤原先生が万葉集の研究者だったことから学生たちがつけた名前だ。 

 先生は次のように振り返る。
「赴任した年、教職員の野球チームができて、私もその一員として大学近くの諏訪山公園の広場で試合をしていました。するとそれを見た学生たちが『私たちもやりたい』と言い出したのです。
 
 彼女たちはみんな野球の素人です。ソフトボール経験者が1人か2人いたぐらいで、ほとんどの子がボールやバットを触ったことすらない。
 どうしようかと思いました。当時女子はソフトボールという風潮だったので、ソフトボールにすることも考えましたが、体の小さい子が多かったので、ソフトではボールが大きすぎる。だから『軟式野球だったらやってもいいよ』と言ったのです。それなら昼休みでも気軽にできますし。

 軟球はソフトボールより反発力があるから、よく飛ぶでしょう。実際にやってみると、そのボールの特性、躍動感が若い女性には合っていたようです。青空の下、みんな伸び伸びとプレーしていました。
 部員もすぐに27~28人になって、たった7イニングしかない試合に全員出すのは大変でした(笑)」

 大切にしたのは技術より、和気藹々と野球を楽しむこと。
「体育会系の活動にすると、練習はシステム化された組織的なトレーニングになりますから。それよりも、初めて捕って投げたときのうれしさ、楽しさ。その原点を大事にしていきたかった。男とは違った野球がしたかったのです」
 
 チームができれば対戦相手がほしくなる。初めのうちは少年野球や還暦野球チームと試合をしていたが、やっぱり同じ年頃の女性と試合をさせたい。そう思った先生は、55年秋、魚津に行き、池田弥三郎教授に「チームを作ってください」と頼んだのだという。すると教授がそばにいた春日先生に、「春日君、作りなさい」と言ったのだとか。

 元エースの直球、いや、挑戦状? を、女房役の春日先生はどう受け止めたのか。
「その時、大いに心が動きましたが、行動に移すまでには至りませんでした。しかし藤原さんからは何度も『女子野球部を作ろう』という誘いが来ます。そこで池田先生が、『教員それぞれが、自分の特技を生かしてクラブを作りなさい』とおっしゃったことをきっかけに、女子野球部を作ることにしました。おそらく55年の秋ごろだったと思います」(春日先生)

魚津短大の「フィッシャーズ」。前列右端が春日先生。昭和57年

 そして部員を集め、56年の正月、藤原先生に「チームができたから対戦しよう」と電話。2人はその場で、6月に池田教授が神戸で講演会を行う際に、初対戦することを決めたのだった。
 春日先生の作ったチームは56年4月、正式に短大の部活動に登録され、名前も魚津にちなんで「フィッシャーズ」と決まった。

 神戸での第1回交流戦の始球式でピッチャーを務めたのは、池田教授だ。
「先生は昭和をリードした学者であり文化人です。ですからこの時の試合にはたくさんのメディアが取材に飛んできました。そしてその報道をきっかけに、大学女子野球の存在が知られるようになったのです」(藤原先生)

 初対戦の結果は「21対4で魚津の圧勝でした」と春日先生。大喜びの春日先生と池田教授、悔しがる藤原先生…。3人の顔が目に浮かぶようだ。
「最初は女子野球という競技にピンと来ていなかった池田先生ですが、神戸で第1回交流戦が行われることになると、2校による池田杯という大会(春秋2回の定期戦)の創設とカップの授与を決めるなど、積極的にアイディアを出してくださいました」(春日先生)

 池田教授は57年に急逝するが、大学女子野球の存在を世に知らしめたのは、池田弥三郎、藤原茂樹、春日利比彦という3人の慶應OBの国文学者だったことを覚えておいてほしい。 
 また藤原先生が女子野球の世界に引き込んだ春日先生は、のちに現在の大学女子野球界の基礎を作った(後述)ことを思えば、約50年前、慶應大学三田キャンパスのグラウンドで汗を流していた大学院バッテリーの存在は、大学女子野球界にとって実に大きかったといえるだろう。

大学のネットワーク作りへ。春日利比古先生が動く

 さて草創期には、どんな大学に女子野球チームがあったのだろう。

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 昔を知る方々に記憶を辿っていただき、資料をあたり、かつて女子野球部があったことがわかっている大学に問い合わせた結果、右図のような9校が浮かび上がった。しかし9校はお互いの存在をよく知らず、限られた相手とだけ試合をしている状態だった。

 そのバラバラに活動していた大学チームの糸をつないだのが、春日利比古先生だ。神戸山手短大と魚津短大の定期戦の報道が何度もなされるうちに、女子野球に対する問い合わせが来るようになり、全国大会を開こうと思い立ったのだ。昭和60年のことである。

 以下、春日先生の記憶を中心に、どのようにして大学のネットワークが形成されていったのかご紹介しよう。「相当昔のことなので、正確に思い出すことはできませんが」とのことだが、その話からは、草創期のチームがどんな思いで活動していたのかが見えてくる。

「全国大会を開こうと思ったものの、果たしてどれくらいチームがあるのかわからなかったので、まずプレ大会を61年(86年)に開こうと企画し、私と、魚津短大事務員の古崎氏とで、約200大学に対して女子野球部やサークル活動に関するアンケートを実施しました。

 この時点で跡見女子大さんと産業能率短大(東京都世田谷区)さん、京都文教短大(宇治市)さんに女子野球の活動があるという情報はつかんでいましたが、その他の大学の選択は、女子大を中心にアトランダムでした。

全国大会実行委員会の事務局で、執務中の春日先生。平成2年

 反応があったのが、先の3大学だったと思います。
 それらの大学に私が出向いて、全国大会のプレゼンテーションを実施しました。
 産能の林教授は熱心で、プレ大会のときも張り切って魚津へ来られましたが、早くにお亡くなりになったと思います。京都文教さんにもおうかがいしましたが、無反応でした。

 跡見女子大の和田先生(故人)とは特に親しく話させていただきました。実は和田先生とは不思議なご縁があります。先生はいつのころからか芝中学・高校の国語科講師をしておられましたが、昭和48年3月におやめになり、代わりに同校に入ったのが私でした(55年からは魚津短大)。ですからお名前と簡単なプロフィールは知っていました。

 その先生にアポをとり、初めてお会いしたのは渋谷の喫茶店。全国大会のプレゼンテーションのときだったと思います。先生は大会開催に大賛成。出場を確約してくださり、2人で今後の大学女子野球に関して話し合いました」

 魚津に帰った春日先生は、魚津市や地元メディアを巻き込みながら準備に奔走し、まず予定どおり61年(86年)8月28~29日に魚津短大、神戸山手短大、跡見女子大、産業能率短大の4校でプレ大会を開くと、62年(87年)8月6~9日に「第1回全国大学女子軟式野球大会(現・全日本大学女子野球選手権大会)」を開催した。参加校はプレ大会の4校に、跡見短大、帝塚山大、金沢女子大(現・金沢学院大)、日ノ本学園短大(現・姫路日ノ本短大)を加えた8チームだった。(結果は下図)

 61年のプレ大会開催に合わせ、「全国大学女子軟式野球連盟」も結成され、全国の大学チームが一本の糸でつながった。跡見短大にエラーズが誕生してから、実に10年の月日が流れていた。

 そして全国大会に出場することを目標に各地で大学チームの創部が相次ぎ、関東では東都大学軟式野球連盟の働きかけで、昭和62年秋に「関東大学女子軟式野球連盟」も誕生。大学女子野球は草創期を抜け、新しい時代に入ったのである。

東北初の女子野球部
 全日本大学女子野球連盟のサイトに、仙台大学の「仙台レチェリア」が昭和53年(1978年)に創部とあったが、実際は平成15年(2003年)創部で、つくったのは2022年現在、履正社高校女子硬式野球部監督の橘田恵さんであることがわかった。橘田さんは同大学OGで、創部したのは3年の時。
「レチェリアというのはスペイン語で牛乳屋さんという意味です。当時私、牛乳屋さんでアルバイトしていたので(笑)。大学の連盟ではなく全日本女子軟式野球連盟に加盟したのは、全国大会が東京で仙台から参加しやすかったこと、また大学生以外も入れるようにしたかったからです」。初代キャプテンは2学年下の神村学園女子硬式野球部OGだったという。
 長い間全日本女子軟式野球連盟に加盟していたが、2016年に全日本大学女子野球連盟(旧全国大学女子軟式野球連盟)に加盟して大学チームとして活動している。
※仙台大学は2023年4月、女子硬式野球部を創部。(2022年7月6日追記)

国文学者たちが育てた大学女子野球

 先に池田弥三郎、藤原茂樹、春日利比古の3氏が国文学者であると書いたが、実は跡見女子大「バイオレッツ」の部長兼監督だった故・和田英道先生も国文学者である(立教大学出身)。和田先生のことは第2章で詳しく紹介するが、大学女子野球の環境作りに力を尽くした人物だ。
 つまり草創期の大学女子野球は、国文学者たちの熱意が支えていたのである。実に面白いと思いませんか? 

 なぜ国文学者たちが野球に夢中になったのか、藤原先生にうかがうと、
「国文学者っていうのは机に向かっていることが多いでしょう。研究をしているとね、煮詰まっちゃうことがあるんですよ。だから時々運動したくなるのです」
 とのこと。

 どの先生方も体育会系野球部で腕を磨いた経験はないそうだが、「みんな本当に野球が好きでした」(藤原先生)。昔はスポーツといえば野球の時代。子どものころは三角ベースに夢中になっただけに、女子学生たちに野球を教えることは楽しくてならなかったそうだ。

第1回全国大会の結果

写真提供/春日利比古、大山啓子(エラーズの写真)
取材協力/春日利比古、藤原茂樹、山田朋子、学校法人跡見学園、大阪女学院短期大学、金沢学院大学、京都文教短期大学、産業能率大学、淑徳大学、東洋英和女子大学、姫路日ノ本短期大学
参考資料/読売新聞夕刊「ウチら短大野球部」(昭和54年5月21日)、『魚津だより』(昭和57年、毎日新聞社刊)、『魚津だより第9冊附録』(平成18年、全日本大学女子野球選手権大会 魚津市実行委員会二十周年記念事業として発行)、全日本大学女子野球連盟提供の資料、『軟式野球 エラーズ史』(跡見学園蔵)

■第2章はこちら → 大学女子野球の扉を開いた跡見学園チーム 

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