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女子野球むかしむかし

明治・大正時代の女子野球。発祥の地は?

女子野球むかしむかし

左は明治時代のスコアブック(『女子適用ベースボール法』より)。右は明治時代の選手の絵(朝日新聞掲載の画帳の絵を管理人が模写)。

女子野球発祥の地はどこ?

 7月上旬に女子硬式野球黎明期(れいめいき)の本を上梓(じょうし)する関係で、このところ図書館に通っていた。巻末につける女子野球の年表に、女子野球がいつ始まったのか、書かなくてはならなかったからだ。

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 ではここでクイズです。女子野球を最初に始めたのは、次の4つのうち、どこでしょう。

①京都市第一高等小学校(現在の中学校に相当)
②愛媛県の今治高等女学校(現在の高校に相当)
③愛知県の名古屋女学校(のちに高等女学校に)
④大分県の佐伯尋常小学校(現在の小学校に相当)

 正解は①だ。現時点で、試合が行われたことが確認できる一番古い記録が京都にあるのだ。年代順に並べると、

1)明治35年、京都市第一高等小学校
2)明治43年、大分県の佐伯尋常小学校
3)大正5年、愛知県の名古屋女学校
4)大正6年、今治高等女学校

 ということになる。それぞれについては後述するが、試合はさておき、女子用のベースボールが作られたという記録だけなら、もっと古いものがある。日本女子大学の体育教師、白井規矩郎が明治35年3月以前に女子用のベースボールを考案したというのだ。

 その競技とは、女子の運動性と安全性に配慮して、ボールはテニス用ゴムボール、バットの代わりにラケットを使い、ベースは5個(つまりダイヤモンドは五角形)、塁間12mというもの。イギリスのラウンダーズという、野球の原型にあたる(らしい)競技を改良したものだそうだ。(資料①②)

 苦労してルールを作ったのなら当然試合をしただろうと思うのだが、残念ながら試合の記録がない。ゆえに現時点では白井の頭の中だけの世界という扱いだ。今後白井の遺品などから試合の記録が出てきたら、「日本の女子野球は大学から始まった」なんていうことになるのだが、さて、誰か研究してくれる人はいませんか?

 そうそう、女子野球の研究者で覚えておいてほしい人が2人いる。
 まず金城学院大学や名古屋女子大学などで教鞭をとった竹内通夫教授だ。1999年、日本体育学会号で発表した「明治・大正期における女子野球について」で、①の京都説や日本女子大学の白井規矩郎のことなどを紹介した、女子野球の歴史研究の第一人者だ。
 
 実は竹内教授、92年に金城学院大学に女子軟式野球部を作っている。東海地方で一番古い大学チームだ。02~06年には全日本大学女子軟式野球連盟(現全日本大学女子野球連盟)の理事長も務めた。

 もう一人は大阪芸術大学の田中亮太郎教授だ。「日本における女子野球に関する研究」という論文はインターネットでも見られるため、多くの研究者が参考にしているが、この田中教授も96年、大阪芸術大学に女子軟式野球部を作っている。こちらは現在活動している関西の大学チームのなかでは一番古く、教授は現在でも部長兼監督として指導にあたり、同校の立派な球場を関西の大学女子軟式野球リーグの会場に提供している。

 また田中教授は全日本大学軟式野球連盟の会長でもあり、Kボールの開発にも関わったという野球界の重鎮なのだ。

<追記>
 実はこの記事をアップしたあとの16年9月に、上記の竹内通夫先生より連絡をいただき、白井がこの競技を作った理由を教えていただいた。
 白井が明治35年発行の『女学雑誌』に寄稿した記事によると、「今回ベースボールに改良を加えてその一を五角として相互の距離を短くし、これを大学生徒に試みつつあるが、成績すこぶるよろしきよしにて、本月同校設立紀念会の節には、余興かたがた、この改良ベースボールを行うはずなり」というのだ。(資料/野球文化学会「ベースボーロジー10」09年)  
 
 同校設立紀念会とは、日本女子大学の創立記念会のことだと思われるが、もしそうであれば明治35年4月にお披露目を予定していたことになる。

 では実際に試合をしたのだろうか。残念ながら「確認できる資料が大学にも残っていない」と竹内先生は言う。そのため、白井の考案した競技を日本初の女子用ベースボールというのにはためらいを感じる。ここはやはり、しっかりとした試合の記録がほしいところだ。
 また今後、何をもって「発祥」とするかを明確にする必要もあるだろう。ルールなのか用具なのか試合なのか。竹内先生によると男子野球においても明確な定義がないとのこと。そのため、この記事では「実際に試合をした記録があること」を「発祥」の根拠にして話を進めたいと思う。

はじまりはじまり

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 ではそろそろ京都、佐伯、名古屋、今治などの記録を見ていこう。

 まず京都の記録。これが実に素晴らしいものなのである。
 明治35年ごろ、京都市第一高等小学校に野球好きの先生方がいたらしい。当時はまだプロ野球がなかったから(日本初のプロ野球チームは大正10年誕生の日本運動協会だとか)、野球ファンを引き付けていたのは慶応大学、学習院大学などによる大学野球。きっと先生方も大学野球ファンだったに違いない。

 その先生方、ある時、女子に適した運動はないかと話し合い、遂に男子の野球をベースにした女子用ベースボールを考案したのだ。そして明治36年4月に『女子適用ベースボール法』というルールブックまで出版している(非売品)。

 その「はしがき」では、ベースボールという運動が心身の健全な育成のために理想的としたうえで、

「硬いボールを使って重いバットを振るという過激な運動を要するために、これまで(ベースボールを)男子が独占していたのを非常に残念に思っていた。そこで女子用に改造したベースボールを作って、昨年(明治35年)7月ごろから子どもたちにやらせてみたら、これがけっこうウケて、今では自発的にやるようになった。教育上、大変喜ばしいことである」
 と自画自賛している。また、

「このルールブックを作成したのは、やり方を説明する手間を省くためであり、世の中の人の意見を入れて女子に最も適した遊戯(競技とは言っていない)に改良するためでもある。それをもって、女子の体育に対する世の中の認識を改めたい」

 と抱負を述べている。先生たち、意気軒昂なのである。時はまさに文明開化の真っ只中。琵琶湖疏水の完成で水力発電が可能になり、電灯が煌々と町を照らすなか、寺町あたりで流行のすき焼きなんぞをつつきながら、熱く語り合ったのではないだろうか。

 男子と違うのはゴムまりとラケット(美満津製7号を推奨とある。おそらくテニスラケットと考えられる)を使うことぐらいで、ルールは現在の野球とあまり変わらない。ただしホームベースの前に石灰水などで長方形をかき、投手はその中にボールを投げ込み、打者はバウンドしたボールを打った。

「守者の位置」

 プレーのハウツーだけでなく、「ベースボールの基本はキャッチボールだ」とか、「塁間は小学生なら5~6間(9~10.8m)、高等小学校(中学)1、2年なら7~8間(12.5~14.4m)、高等小学校(中学)3年以上や高等女学校なら約10間(18m)がいいんじゃないか」「正式な試合は9回だが、小学生には5回ぐらいが適当ではないか」などと、実際にやらせてみての実感も盛り込まれている。

「キャッチボールは最初は3~4間(5.4~7.2m)ぐらいから始めて、だんだん距離を伸ばすといい。しまいには15間(27m)ぐらいまで投げられるようになった者もいる」
 なんてことも書いてあり、遠投に挑戦する子どもたちと、巻尺を持って走る先生方の姿が見えるようで微笑ましい。

 スコアブックもあり、「○」「×」「S」の3つのマークを使う。冒頭の画像がそれで、○は得点、×はアウト、Sは残塁を表し、それぞれの選手の欄に記入する。
  
 またゲームの開始、中止、交代の規則、審判者の用語、難しいプレー(たとえば挟殺)のハウツーが書かれたページもあり、そのあまりにも精密な内容に、もしかしたらどこかの大学野球部にいた先生が、このルールブックの製作に関わったのではないかと勘ぐってしまうほどだ(あくまでも想像です)。

 全部で28ページにも及ぶこのルールブックを見れば、この競技が単なる女の子の野球ごっこではなく、先生方が情熱を傾けて作ったものだったことがわかる。

 今回個人の方のご好意で全文のデータを公開できることになったので、じっくりとお楽しみいただきたい。国立国会図書館でもネット公開されているそうなので、そちらで見ることもできる。

<女子適用ベースボール法 全文> → 

 さてこの女子適用のベースボールには後日談がある。つい最近関西女子野球連盟(軟式)の強豪チーム、大阪ワイルドキャッツの八木久仁子代表から、昭和60年(1985年)8月5日の朝日新聞大阪版に、明治時代に女性が野球をしたという記事が載っていることを教えてもらい、早速調べてみた。

 書かれていたのは、ざっくり言うと、例のベースボール法を考案した京都市第一高等小学校と、京都市第二高等小学校の女子が明治37年に試合をしたということだった。第二高小OGの、当時94歳の女性の卒業画帳に、卒業記念と思われる試合の様子が書かれているのである(記事の要約は「殿堂入りデータ」欄の「明治時代に女性が野球」を参照)。

 第二高小のチーム名は「RED」。ということは第一高小のチーム名は「WHITE」だったんじゃないかと想像する。先のルールブックには必要な用具として「紅白だすき」と書かれているので、第二高小は赤いたすき、第一高小は白いたすきをかけて「源平合戦」を気取ったのではないだろうか(源平=紅白の意味がわからないお子さんは調べてくださいね)。

 結果は16対8で第二高小の勝ち。「実に面白く愉快なり」と画帳には書かれている。先のルールブックにのっとったスコアブックも残っているが、取材した朝日新聞の記者は、「○印は得点らしいが、×印とSはよくわからない」と書いている。でもみなさんはもうおわかりですね。×はアウトでSは残塁です。

 明治35年7月にはもう子どもたちに試合をさせ、36年4月にはルールブック(女子適用ベースボール法)を出版し、37年3月ごろ? には他校と試合。朝日新聞の記者の発見によってしっかりとした裏づけが取れた、貴重な女子野球の記録といえるだろう。

 参考までに書き添えると、この京都市第二高等小学校は、軟式野球発祥の地としても知られている。市内の熱心な先生方が中心になって子ども用の安全なゴムボールを開発し、ボールの完成記念大会を開催したのが京都第二高小だったのである。そのボールを京都文具商業組合長の鈴鹿栄が販売し(大正7年)、それが今日の軟式野球の原点になっているのだそうだ。

 朝日新聞の取材にこたえた94歳の女性は、野球好きな男の先生が熱心に指導してくれたと言っているが、女子用ベースボールの考案といい軟球の開発といい、どうも当時の京都には、野球に熱い先生方がたくさんいたらしい。

佐伯説の真実

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 大分県佐伯尋常小学校発祥説は、明治43年6月に発行された『運動世界』に掲載された「少女野球団の敗戦」という記事が根拠のようだ。しかし実はこれ、本当にあった話? と首を傾げたくなるようなフワッとした内容なのである。なにしろいつチームが作られたのかも書いていなければ、チームを作った先生の名前も仮名なのだから。

 その原因は、この先生が、チームを作ったことが校長にバレるのをひたすら恐れていたかららしい。ゆえに運動世界の記者に、「学校にバレないように、ぼやかして書いてね」と頼んだとしか思えないのだ。

 1ページ半にも満たないその記事から想像すると、だいたい以下のような感じだったらしい。
「野球がものすごく盛んな佐伯尋常小学校に、杉野さん(仮名)という先生がいた。野球未経験者ながら、赴任以来2年間、ずっと子どもたちが野球をするのを見ているうちに熱烈な野球ファンになってしまった。
 自分もチームを作りたいと思ったが、受け持ちは尋常科女子部の6年生。まさか女の子に野球をやらせるわけにはいかない。でも男子が毎日のように試合をしているのがうらやましくて、先生、一大決心をしてガールズチームを作ることにした。もちろん校長や保護者には内緒である。

説明

 早速希望者を募ると、なんとほぼ全員が『やりたいやりたい!』と大喜び。一つどころか複数のチームができた。
 そこで女子用のボールとして、芯に綿を入れたスゲ手毬を作り、バットは先生が安月給をはたいて購入し、グラブは男子のお古をもらって練習を始めた。講堂の裏の空き地で毎日キャッチボールに励んだところ、日に日に上達。

 ところがちょうどグラウンドの真向かいに佐伯新聞の本社ができてしまった。これはうっかりすると新聞ネタにされて校長にバレるぞ、とあせった先生は、結成してまだ1カ月もたたないのにチームの解散を宣言。

『えーヤダァー』という子どもたちの大ブーイングをよそに、『とにかく明日で野球はおしまい。今日の午後女子で試合をして、優勝したチームが明日、記念に小学2年生の男子チームと試合をする』と申し渡した。
 先生は相手は2年生だから当然勝てると思い、解散に花を添えようと思っていたのだが…。

 グラウンドにはおそろいの白いユニホームに身を包んだ2年生男子チーム。バッティング練習なんかしているが、生意気にもなかなかうまい。そこへ白だすきにえび茶袴の6年女子が乗り込み、試合開始。ところが女子チームは先生も選手も舞い上がって実力が発揮できない。女子たちは持っていた物差しを振り回して大声で応援したが、なんと4-27で大敗してしまった」
 というもの。

 記事を書いた記者「空冷子」はなかなかウィットに富んだ人物のようで、奔走する先生や試合の様子などを面白おかしく書いているので、ぜひ原文を読んでほしい。

佐伯小学校の沿革史

 しかしやっぱり気になるのが記事の信憑性だ。中に出てくる佐伯新聞についても調べたが、佐伯市の教育委員会や郷土史を研究している佐伯史談会も、ともに、「明治43年には佐伯新聞という新聞はなかった」と言う。
 つまりこの記事は捏造? と思わなくもないが、学校にバレないように気を配っていたことから見て、新聞社の名前もかえていた可能性がある。

 とはいえ何もかもボヤッとした話のわけではなく、佐伯小学校が明治期から学校教育の一環として野球を取り入れていたことは確かで、現在の学校(市立佐伯小学校)の村上孔児教頭先生に写メして送っていただいた学校の沿革史には、「明治34年4月 この頃より課外運動として野球を始めたり」と明記されている。『運動世界』の記事と合わせてご覧いただきたい。
 
 さて謎の多い記事ではあるが、この記事を真実として、京都よりすごいなと思うのは、バットやグラブを使っているところだ。投手もおそらくホームベース前でワンバウンドさせるのではなく、キャッチャーミットに直接投げ込んだと思われるため、「野球のかたち」ということでいえば一番本格的だったのではないだろうか。その意味で、今後この佐伯尋常小学校の女子チームの研究が進むことを願っている。 

大正3年ごろ、アメリカでプレーした少女たち

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 この佐伯尋常小学校の記事を見つけるために国立国会図書館で『運動世界』の索引目録を、目を皿のようにして見ていたら、以下の記事を見つけた。

「可憐なる日本少女の野球選手」
 
 ?!  早速、大正3年4月発行の『運動世界』の記事を読んでみると、著者の田中一道は何かの報道で、以下のことを知ったという。

 いわく、アメリカのロスアンゼルス市、ロースフェリズ小学校で、日本人の女の子2人が野球をしていると。少女たちは小島八重子、勝子姉妹。明治30年4月から明治34年3月まで、東京市牛込区長を務めた小島官吾の娘たちである。
 
『人事興信録』(国立国会図書館データベース)によると、官吾の本業は弁護士で、八重子は明治31年5月生まれ。妹勝子は興信録にその名はないが、官吾には和子という末子がいるため、勝子はこの和子のことだと思われる(明治34年2月生まれ)。仮に『運動世界』の記事が大正2~3年の出来事を紹介しているとすれば、2人がアメリカで野球をしていたのは、八重子14歳頃、勝子11歳頃ということになる。

 官吾が区長退任後、どのように過ごしたのかは知らないが、おそらく一時期、家族を伴って渡米したのではないだろうか。
 八重子、勝子姉妹が通った小学校には男子と女子の野球チームがあり、八重子は少女チームのキャプテン、勝子はその投手を務めたという。

 女子チームは男子チームに勝つこともしばしばで、両チームの総監督兼審判員の女性教師、ローチーレビスは得意げに、
「うちの女子チームはわが校の自慢です。彼らは上手に試合をするし、特に外来チーム(他校?)に対してはどんな時もこれを歓迎します。もちろんそれが男子であっても女子であってもね」
 と語っているのだ。

可憐なる日本少女の野球選手②可憐なる日本少女の野球選手  

 たったこれだけの文章だが、いくつかの興味深い事実を拾うことができる。
①大正2~3年(1914年)にアメリカでプレーする日本人の女の子たちがいたこと。
 おそらくバットで硬球を打っていたことだろう。

②1914年のアメリカには、子どもの女子野球チームが複数存在したこと。
 アメリカの球史にはまったく詳しくないが、明治44年1月発行の『運動界』には、「ニューヨークのバーナード・カレッジという女子大学に複数女子野球チームがあり、他大学と活発に試合をしていた」という内容の記事があり(資料⑤)、また『女たちのプレーボール』(桑原稲敏)という本には、「1910年(明治43年)ごろ、ブルーマー・ガールズというチームが全米各地で男子のプロに挑戦し、ロスアンゼルスでは在留邦人のチームとも試合をしたことがある」と書かれている。

 まさに小島姉妹が滞在したころはアメリカでは女子野球の試合がしばしば行われていたわけで、その影響もあって、ロスでは女の子も野球をやっていたのだろう。

③小島家は「女が野球なんて」と言わない家風だった。
 佐伯尋常小学校の先生が、女子チームを作ったことを必死で隠さなければいけなかったほど、女子のスポーツが認知されていなかった当時、アメリカとはいえ、娘たちに野球をさせた小島家は自由な家風だったのではないだろうか。
 ②の記事によるとロスアンゼルスには日本人チームがあったというから(試合のためだけの結成かもしれないが)、もしかしたら父官吾も女子チームと試合をしたかもしれない。

 小島家のその後は追跡調査していないが、伸び伸びと硬式野球を楽しんだ少女たちが大正初期にいたことは、女子野球史を語るうえで重要だ。

表紙はオレンジと黒の2色刷り。厚さ1㎝にも満たないザラ紙の雑誌。佐伯の記事が載った明治43年6月発行の25号

 さてこの記事を書いた田中一道は、記事の後半で「(アメリカのように)女子にもスポーツを」と訴えている。同じように『運動世界』の主幹を務めた、社会主義者で早稲田大学野球部創設者である安部磯雄も、明治43年5月発行号で「女子の体育を奨励すべし」と、熱く熱く説いている。

 いわく、
「国民全体の健康を増進するには、国民の母たる女子が今のように運動を怠っていてはだめである。なぜなら、運動不足の結果として女子は男子のごとき敏捷の動作を欠いているのみでなく、筋肉の発達少なく、血色も悪いのである。しかしてその皮膚は白いというよりもむしろ青白というのが適当であろう。ゆえに多数の婦人はいずれも憂鬱症とかヒステリー症とかにかかっているので、その陰気なる顔に生気というものがない」

 そしてそれは男子が女子に、
「繊弱(せんじゃく)なる体格、白き皮膚、柔らかき筋肉、しとやかなる動作を求めるから」
 で、自分が理想とする女性美は、
「発達せる筋肉、生気に充てる容貌、軽快なる動作である」
 と言う。そして最後は、
「女子もまた遠慮なく運動を試みるがよいのである。馬に乗るもよし、自転車に乗るもよい。野球でもボートでもかまわぬ。自分はいかなる遊戯をも女子に勧めたいのである。(中略)運動家たる男子はことに凡俗なる婦人観を脱却して、真正なる婦人美を求めるようにありたい」
 と締めくくっている。

 こうした従来の女性観を打ち破る運動思想は、当時すでに始まっていた大正デモクラシーの一つの表れといっていいだろう。

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高等女学校に野球ブーム

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 世の中にどれくらい安部や田中の思想が浸透していたかはわからない。でもこの自由な風にのって、いよいよ大正5年、愛知県の名古屋女学校(大正10年、高等女学校に昇格)に女子野球部が誕生するのである。

 校長の越原和(やまと)は早稲田大学高等師範部卒(大正2年)で、「野球は女子の身体発達、精神発達に大変適している」として、テニスボールと少年野球用ルールを使った野球を始めたのだという(大正7年にインドアベースボールを採用。さらにその後キッツンボールに転向)。一説には野球経験者だったといい(資料③)、まだ20代の若き校長は自ら熱心に指導にあたり、卒業生は「校長先生は一日も欠かさず練習をみてくれた」と振り返ったほどだ(資料③)。

「元気ある生き生きとした女は、決してお転婆ではなく、元気あって、かつしとやかな女子は、勇壮活発なる運動によって作り出されるものであることを忘れてはならない」
 と言い(資料②)、この女性観に、先の早稲田大学野球部創設者、安部磯雄の影響を色濃く感じるのだ。
 そしてこの、女子教育に野球を取り入れた越原の取り組みは、大正8年発行の『野球界』6月号と、9年発行の同7月号で紹介され、全国の女学校で奨励されていったのである。
 
 一方、全日本女子軟式野球連盟のホームページなどで「日本初の女子野球チーム」と位置づけられているために有名になった、愛媛県の今治高等女学校チームは、大正6年11月に、クラブ活動の一環として活動を始めた。
 先の『女たちのベースボール』によると、この創部をジャパンタイムズが「日本における最初の女学生の野球部」と外国に紹介したため、ちょっとした騒ぎになったらしい。

 そのプレーはといえば、テニス用ゴムボールとラケットを使い、ホームベースの前には四角いピッチャーズボックスを作り、投手がいったんバウンドさせたボールを打ったという。

 ん? これって、京都市第一高等小学校の「女子適用ベースボール法」と同じじゃありませんか? 
 答えはわからないが、7年には正式な運動部に昇格し、ピッチャーズボックスをなくして通常の野球のルールで競技を行ったという。生徒たちの技術の向上に伴い、ラケットは次第にバットに代わっていき、塁間も10間(18m)に決定(この数字、やはり女子適用ベースボール法にあったものだ…)。

 果たして今治高女で野球を始めた中村敏男教諭は何を参考にしたのか…。今となっては真相はやぶの中だが、いずれにせよ、今治高女は遠征をするなどして活発に活動していくのである(一説には今治高女が採用したのはインドアベースボールであったという。資料②)。

 大正7年、少年野球用の軟球が開発され、人気を博したことも高等女学校の野球に影響を及ぼした。大正11年に、和歌山県の和歌山高女、粉河高女、橋本高女の3校に、軟式野球部が誕生したのである。また大阪でも市岡高女、泉南高女に軟式野球部が生まれ、交流戦も行われたという。

 このように全国の高等女学校に野球部が次々に生まれ、先人の研究からピックアップすると、その数は22にもなる(以下)。

 宮城県の仙台高女、栃木県の宇都宮高女、栃木高女、茨城県の水戸高女、長野県の諏訪高女、愛知県の名古屋高女、名古屋第一女子高女、愛知淑徳高女、岡崎高女、半田高女、津島高女、大阪府の市岡高女、堺高女、岸和田高女、泉南高女、和歌山県の粉河高女、和歌山高女、橋本高女、奈良県の桜井高女、愛媛県の今治高女、福岡県の直方(のうがた)高女、熊本県の熊本第一高女など(資料②⑤⑥)。

 それぞれ活動した時期や採用した野球の種類が異なるので、同列に語ることはできないが、数だけを見れば2016年現在の高校女子硬式野球部の数(24)とほぼ同じだ。

 なお大正時代の女子野球にはアメリカから輸入された「インドアベースボール」(元々は室内競技だが、「わが国ではほとんど戸外でなされている」と国民新聞社の廣瀬謙三は書いている。資料⑨)、「キッツンボール」(屋外)、「プレーグランドボール」(屋外)と、日本で生まれた「軟式野球」など、いくつかの種類があったが、その詳細についてはここでは触れない。でもすでに先人の研究が色々あるので、興味のある方はぜひお調べいただきたい。

抹殺された女子野球

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 大正デモクラシーの風に乗って、今でいえば女子高校生の野球が大ブームになったものの、旧態依然とした女性観は相変わらず日本を支配し、大正10年ぐらいから女子野球批判が湧き起こってきたという(資料③)。

 大正10年には栃木高女が学校体育の科目として野球を取り入れたところ、学校内外から非難を浴び、やむなく野球自体を禁止することになった(資料⑤)。
 大正11年には直方高女野球部(同年5月創部)が、沢田牛麿福岡県知事によって強制的に解散させられた。「将来、新家庭の母となる女学生たちにふさわしくない運動」が理由だった。 
 早稲田大学卒の白石教諭や、同大学の野球部員だった井上コーチの本格的な指導の下、メキメキと力をつけていただけに(資料④)、先生や生徒たちはどんなに悔しかったことだろう。

 この沢田知事の女子野球部解散命令に対し、当時早稲田大学の(初代)監督で、のちに「学生野球の父」と呼ばれた飛田穂洲(とびたすいしゅう)は、雑誌『運動界』12年3月発行号に「暴君に虐げられた直方高女野球チーム」という文章を寄稿し、

「校長の許可があり、希望者の家族の了承も得てスタートしたのであるが、(中略)健康、学業成績、生活態度のいずれ良好な生徒たちから(野球をする)機会を奪ってしまわなければならぬ無常を痛感する」
 としたうえで、
「他の運動と比較して野球のみを不可なりというものがあれば、断じてこれに服するわけにいかぬ」
 と論陣を張っている(資料②)

 しかしその声は届かず、14年、「全国高等女学校校長会議」(文部省主催)で女性のスポーツが議題にあがり、まず文部大臣の、
「(女性のスポーツのなかには)少々過激なものがある」「女子の美徳と相容れざるものがある」「弊害を生ずるところがある」
 という訓示が示され、あわせて「インドアベースボールやバスケットボール、スキーは女子には過激ではないか」という校長会の調査案が出された。そして、これら3つの種目を高等女学校の体育として採用するのはよく考えたほうがいい、という流れになったのである。
 
 この時、あくまでも想像だが、率先して野球に取り組んでいた名古屋高女の越原和(やまと)や、和歌山高女の草部倭など何人かの校長たちは、教育的成果を挙げながらこれに反対したと信じたい。

 しかし反対する者がいたとしてもその声はかき消され、競技実施上の注意事項として、「選手の養成は避ける」「試合を避ける」などが決まったというから、これはもう、やるなと言っているのと同じである。

 案の定、翌15年の「改正学校体操教授要目」の女子教材からはプレーグランドボールなど、野球のカテゴリーに入る競技が不適当な種目であるとして削除されてしまった。
 何が不適当かといえば、
「女子が足を開いてバットを振るなど、最も女子らしからぬ行為」
 だというのだ。思わず天を仰いだ。こんな理由で…。

 しかしこれをもって「過激で女子の美徳に反する」女子野球は、実質的に禁止されてしまった。和歌山県では15年に県学務課が、「野球は女子に不適切。不妊の恐れあり」として中止命令を出したというから(資料②)、福岡県の沢田知事の例を見てもわかるように、女子野球の抹殺は国と教育界が結託して進めた蛮行だったのである。  

 時代はさらに女子野球に不利になっていった。大正12年に関東大震災が起き、昭和4年に世界大恐慌が起きると、世情不安や経済不況の嵐が吹き荒れ、高女野球を支えた大正デモクラシーによる女性解放思想は下火に。政府は活路を中国大陸に求め、昭和6年に満州事変が起きると、世の中は一気に戦争へと突き進んでいったのである。
 かつて熱い志をもって女子野球を育てた人々がいたことも、はじけるような笑顔と歓声に包まれた女子野球の世界があったことも、遠い記憶のかなたに消えていった。

そして新しい歴史が始まる

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 それから数十年。私が女子野球の取材を始めた平成20年(08年)ごろは、女子野球は見事に復活し、細々とではあるが、しっかりと活動していた。
 戦後女子プロ野球(準硬式)やノンプロ野球、軟式硬式の様々な連盟が生まれて、野球をやりたいという女子の思いをつないできたのだ。明治大正期の女子野球の記憶は失われていたけれど、そこにはやっぱり志のある指導者と、はじけるような笑顔と歓声があった。国家権力は、彼らの心の火までは消すことができなかったのである。
 
 今、あれほど虐げられた女子野球は、大正時代をしのぐ発展期に入っている。女子野球日本代表はワールドカップで4連覇し、女子プロ野球(硬式)が生まれ、NPBや全日本軟式野球連盟は女子選手育成に舵を切った。そのスローガンは、「将来母になる子に野球の楽しさを」だ。時代は変わったのだ。

 その一方で、未だかつてしっかりとした基盤の上で活動したことがない女子野球は、競技規定や環境作りなど、様々な面で課題を抱えている。「野球は男のもの」「女の野球なんて」という偏見も相変わらず根強い。
 それだけに、しっかりと歴史を振り返り、その中から様々な教訓と未来につながるヒントをみつけてほしい。

 女子野球むかしむかし。
 素敵な先輩たちに会えたことに、乾杯。 

※記事は先人の研究を大まかにたどったものにすぎません。ぜひ多くの方々が新事実を発掘し、正確な歴史と人々の思いを書き残してください。

※たくさんの資料を惜し気もなく提供してくださった館慎吾さん、ありがとうございました。

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 <参考資料>
①白井規矩郎『教育持論』610号(1902年3月)「欧米に現行する体操と遊戯(2)」
②竹内通夫『日本体育学会大会号』50(1999年)「明治・大正期における女子野球について」
③東海体育学会『スポーツと教育的創造』(2011年)
④寺田瑛『女子の運動競技』(1923年)
⑤田中亮太郎「日本における女子野球に関する研究」
⑥『日本女子オリムピック年鑑』(1924年)
⑦庄司節子「東海女子学生キッツンボール大会と女子野球の普及活動」(1997年)
⑧庄司節子「ルールからみた大正期の女子野球普及についての検討」(1998年)
⑨廣瀬謙三『女子に簡易野球を薦む』「体操と競技」第1巻第9号(1922年)

 <掲載資料>
●「女子の体育を奨励すべし」(『運動世界』明治43年5月発行号)、「少女野球団の敗戦」(『運動世界』明治43年6月発行号)、「可憐なる日本少女の野球選手」(『運動世界』大正3年4月発行号)/東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫所蔵

 
 

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