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彼女たちの4連覇

特集 2020年1月25日

 彼女たちの4連覇

第6回女子野球W杯を制した4人の物語

宮崎で行われた第6回ワールドカップを制した日本代表。

※この記事は2014年10月16日発行の『Number 862』(文藝春秋社)の記事を再録したものです。

(文中敬称略)

 降りしきる雨の中、1万4千人の観客は総立ちになっていた。2死走者一塁。マウンドの里綾実が投じた渾身のストレートをアメリカのマーストンがはじき返す。濡れたグラウンドで失速した打球をショートが軽快にさばいてセカンドへ。ゲームセット。里は「よっしゃー」と身をかがめながらガッツポーズをした。女子野球W杯で日本の4連覇が決まった瞬間だ。
 
 2008年の第3回大会以来、女子野球W杯で優勝を重ね、IBAF女子野球世界ランキングでもトップを走り続ける日本は、今大会でも1次、2次ラウンドはアメリカ戦を除きすべてコールド勝ち。決勝でもアメリカを3対0と完封してその強さを世界に見せつけた。
 決して恵まれているとはいえない環境の中で、それでもひたむきに白球を追い続け、4連覇の偉業を成し遂げた彼女たちの野球人生とは…。

里綾実の物語

「野球を始めたのは目立つのが好きだったからです。小学生のころは女子で野球をやっているっていうだけで目立ったし、人と違うのっていいなと」
 決勝で完封し、MVPを受賞した里はそう言って屈託のない笑顔を見せた。

里選手

 鹿児島県の奄美大島に生まれた里は中学までは無名の投手だった。運動神経抜群で成績優秀。そのラテン系の明るい性格から、中学では生徒会長を務めたほどの人気者だったが、野球部ではエースになることができなかった。
 しかし中学3年の夏、転機が訪れた。小学生の時から憧れていた高校女子硬式野球の強豪、神村学園の体験練習会に参加したとき、橋本徳二監督に見出されたのだ。
「わあすごいなあと思いました。島の子はバネが違うんでしょうか、体全体を使ってすごく速い球を投げていました」
 当時の様子を橋本はそう振り返る。橋本は里を特待生として入学させ、里もまたその期待に応えて女子野球の高校選手権優勝に貢献した。 

 日本代表を目指すようになったのは大学女子硬式野球界の名門、尚美学園大学女子硬式野球部に入ってからだ。
「1年生のとき、軽い気持ちで受けたW杯松山大会(08年)の最終選考で落ちて、日本が初優勝してワーッて喜んでいる様子をスタンドで見ているしかなかった。それがすごい悔しくて。同じプレーヤーとして一緒に喜びを分かち合いたい、日本代表として世界一になりたいという強い思いが芽生えたんです」

 目標が定まれば一直線。在学中に2010年と12年のW杯代表に選ばれると世界一への思いはさらに強くなり、「体育の先生になる」というもう一つの夢は封印した。働きながら野球ができる環境を求めて京都の福知山成美高校女子硬式野球部のコーチになったが、自分の練習時間はなかなか取れず、昨年、高いレベルで切磋琢磨できる女子プロ野球の世界に飛び込んだ。すべて日本代表に選ばれるためだった。

 そして手にしたW杯優勝とMVP。
しかし大会から4日後、里はもう次のW杯に向けて練習を開始していた。
「また代表に選ばれるところから始めなくてはいけないし、プロとしても結果を出さなくてはいけないので」
 そこまでする理由は何なのか。
「一番になりたいからです(笑)。世界でも、投手陣の中でも。大きな舞台で活躍してみんなを喜ばせたいんです(笑)。今回は日本開催だったので小中学生の女の子もたくさん応援に来てくれて、それがすごくうれしかったですね」
 いつか現役を引退する時が来たら、今度こそ学校の先生になって女の子が野球を続けられる環境を作るのが夢だ。

さとあやみ 1989年12月21日、鹿児島県生まれ。投手。右投げ右打ち。身長166cm。女子プロ野球「ノースレイア」所属。最速125kmの速球とスライダー、縦カーブを武器に、昨季、奪三振王に輝いた。

川端友紀の物語

 今大会、5番ファーストとして6試合にフル出場し、打率3割5分7厘、刺殺28と、攻守にわたって活躍したのが川端友紀だ。兄は東京ヤクルトスワローズの強打者、川端慎吾で、自身も10年に開幕した女子プロ野球で3回も首位打者をとったスラッガーだ。その彼女には、女子ゆえに野球を諦めた時期があった。

川端選手

 幼いころから何事につけ兄の真似をするのが大好きだった川端は、小学3年の時、兄のあとを追うようにして父が監督をする貝塚リトル(大阪府)で野球を始めた。
「中学でも野球を続けたくて女子野球部を作ろうとしたんですが、2人しか集まらなくて。それで女子野球は夢や目標が見えにくいからと父に勧められて」ソフトボールに転向した。
 00年のシドニー五輪で女子ソフトボールが準優勝していたことも背中を押した。当時女子野球の国際大会はようやく始まったばかり。五輪に至っては現在も競技種目になっていないだけに、川端家の判断は無理もなかった。

「ソフトで五輪に出る」と決めた川端は練習に打ち込み、中学では五輪強化選手に選ばれ、高校では選抜チームの一員として国体にも出場した。高校1年のとき兄がドラフト指名されても、「すごいなあとは思いましたけど、兄は野球、自分はソフトと思っていたので羨ましくはありませんでした」と言う。
 
 しかし運命は川端を野球に引きもどす。会社の練習方針になじめず、19歳で塩野義製薬ソフトボール部を退団した後のこと。女子プロ野球誕生の報を聞いて、再び野球への思いに火がついたのだ。
「ちょうどソフトが五輪競技から外れて目標を失ってしまった時でした。タイミング的に運命的なものを感じたし、兄と同じプロ野球という土俵に立ちたいという思いもあったので、迷うことなく入団テストを受けました。

 初めて日本代表に選ばれたのはプロ3年目の時です。五輪に出るのが夢だったし日本代表にはすごい憧れがあったので、かつて目指していたものと形こそ違え、選ばれたときはうれしかったですね」
 野球を続けたくてもできなかった時期があっただけに、今大会、川端はある強い思いを抱いて試合に臨んだ。
「女子野球がもっもっとと盛り上がってほしいので、私たちのプレーを見てカッコイイとかすごいなって思って、野球をする女の子が増えてほしいと思っているんです。そういう意味でも絶対勝って子どもたちに夢を与えたいです」
 優勝した今、その思いは子どもたちに届いたと信じている。

かわばたゆき 1989年5月12日、大阪府生まれ。内野手。右投げ左打ち。身長170cm。ソフトボールの実業団を退団後、20歳で女子プロ野球1期生に。現在は「イーストアストライア」に在籍。

中島梨紗の物語

「前回のW杯から、これが最後かもしれないと思ってマウンドに立っているんです。いつか代表じゃなくなる時が来たら、私はたぶんダメだと思う。野球に対する気持ちが切れちゃうと思う。日本代表という存在はメチャメチャ大切。夢というか目標」
 16歳から27歳の現在まで代表に選ばれ続けてきた中島梨紗は、大会前、辛い胸の内を吐露した。若手が台頭するなか、おそらく年齢を重ねるたびに感じてきたであろう危機感。

中島選手

 昨シーズン終了後、その思いが募って投球フォームを変えた。中島といえば上手からの速球というイメージを覆す、サイドスローへの転向。大きな賭けだった。
「やっぱり何かに秀でていないと代表に入れないし、上手投げの選手は何人もいる。そう思ったとき、サイドスローに変えたほうが選ばれる確率が高いなと」
 苦しみながらマスターしたそのサイドスローで、見事代表の座をつかんだ。1次ラウンドの香港戦で2イニングを投げ、2次ラウンドのアメリカ戦ではワンポイントで登板し、失点0、2奪三振の成績を残した。

 今大会の登板数こそ少なかったが、中島の経歴は代表選手のなかでもひときわ華やかだ。強豪、神村学園女子硬式野球部2年の時に出場した世界選手権では、決勝で完投勝利して一躍脚光を浴びた。その青春は常に代表の称号とともにあり、12年のW杯後は3連覇を達成した代表選手として、鳴り物入りで女子プロ野球に入った。

 女子野球界きっての海外通としても知られ、19歳以降、重ねた海外遠征は5回。特に大学卒業後は半年単位で2回もオーストラリアに野球留学している。
「何よりもグラウンドがあり余っていて、好きなときに好きなだけ野球ができる環境にすごく惹かれたんです。日本ではバントをする場面でも向こうでは犠牲フライで1点という、そんな野球観の違いも勉強になりました」
 日本人ながら女子の全豪大会にも出場し、「その時の経験は今世界と戦ううえで生きています。ご縁があれば外国で監督をしてみたいですね」と目を輝かせる。

 豊富な代表経験と海外での野球経験。そんな中島だからこそ、今回大倉孝一監督は投手リーダーとしての役目も任せた。監督の指示を噛み砕いて選手に伝え、W杯という大舞台に立つ投手のメンタルをサポートする役目だ。中島はその仕事に手応えを感じた。
「今後は選手としてだけでなく、コーチのようなかたちでも代表チームに貢献したいです」
 新たな目標を見つけた中島は、優勝後のグラウンドで晴れ晴れとした表情を見せた。

なかしまりさ 1986年12月27日、福岡県生まれ。投手。右投げ右打ち。身長163cm。女子硬式野球クラブ「侍」を経て、昨年から「イーストアストライア」でプレー。今季から兼任コーチも務める。

金由起子の物語

 36歳。チーム最年長の金由起子は、長打力と勝負強さで代表チームに貢献してきた選手だ。前回のW杯ではチャンスに打ちまくって打点王に輝き、今回は2回も満塁の場面で長打を打つなどしてチーム一の8打点を挙げた。
 そして金は、今よりもっと女子野球に対する偏見が強かった時代から、強い思いをもって野球を続けてきた選手でもある。

金200

 北海道天塩町の野球一家に育った金は、地元の少年野球チームで野球を始め、俊足を生かして1番センターとして活躍した。しかしその実力が男子選手たちの嫉妬を買った。
「中学で野球部に入ろうと思ったら断られたんです。あとになって知ったのですが『女が男よりうまくなったら男の立場がない』という理由だったそうです」。
 高校卒業後、就職して朝起き野球リーグで野球を再開したが、活躍する金に「女だし、こんな小さな町だからすごく見えるだけ」という心ない言葉が投げられたという。
「なにくそ、と思いましたね」

 そんなとき女子軟式野球の強豪クラブ「札幌シェールズ」の黒田揚子(現竹中揚子)主将が、女子野球日本代表の主将に選ばれたことを知った。すぐに「北海道で一番強い女子チームでレギュラーになる!」と決めてシェールズに入団。
 野球の虫のメンバーと過ごす時間は楽しく、「野球がしたくてしたくて、毎週末、天塩から車を片道3、4時間飛ばして札幌まで通いました」。憧れの黒田とともに日本代表になるという究極の目標もでき、胸の中に燻っていた悔しさは努力の原動力に変わっていった。

 そして02年、念願の世界選手権に出場。まもなく25歳の誕生日を迎えようという日のことだった。以来代表歴は9回を数える。「世界と戦って勝つために」、04年には北海道唯一の女子硬式野球クラブ「ホーネッツ・レディース」を仲間とともに立ち上げた。
「少しでもいい環境で野球をやるために、仕事も住まいもけっこう変わっているんです。今の仕事は9年前から。病院の作業療法士の助手です。一時は資格を取ることも考えましたが、学校に行くと野球ができなくなるので、資格を取るのは現役を引退してからでもいいと思っています。日本代表を目指す理由ですか? ずっと自分の力を試したいと思ってきたし、高いレベルで野球をするのはすごく楽しいからです」

 4連覇した経験は北海道に持ち帰り、代表の座を狙えるような人材を育てたいと言う。金は世界の頂点だけでなく、北海道の女子野球の未来をも見据えているのだった。

こんゆきこ 1977年9月20日、北海道生まれ。内野手。右投げ右打ち。身長168cm。現在は自ら立ち上げた女子硬式野球クラブ「ホーネッツ・レディース」主将。パワーヒッターとしてならす。

 決勝の会場となったサンマリンスタジアム宮崎は、いつまでも興奮に包まれていた。この日、会場やテレビで4連覇を目撃した子どもたちの中から、いつの日か代表選手が生まれるに違いない。

雨の中の激闘を記録したスコアボード

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