第1部
特集 ★2012年10月9日
大学野球がくれたもの
第1部 魚津には青春が溢れている
池田弥三郎氏の魚津赴任に端を発した全国大会
「お嬢さんが試合に出ているんでしょう? すごいわねえ」「どこの大学ですか?」
全国大会を見に来たと言うと、町の人たちは皆、満面の笑みでこんな言葉をかけてくれる。
「いえ、私、保護者じゃないんです」なんて言いながらも、富山県魚津市の皆さんの好意がうれしい。
魚津市民で「全日本大学女子野球選手権大会」(全国大会)を知らない人はいない。駅舎には大会開催を告げる小旗がはためき、信用金庫のショーウィンドーには全チームの写真と紹介記事がデカデカと張られている。
今年2月、25回にも及ぶ大学女子野球の全国大会が市民の誇りになっている、という理由などから「全日本大学女子野球選手権大会 魚津市実行委員会」が「平成23年度 地域づくり総務大臣表彰」を受賞したが、「市民の誇り」という言葉がうなずけるほど、8月末の魚津は大学女子野球一色に染まっていた。
大学の全国大会が魚津市で開かれるようになったのは、1980年、慶應義塾大学の池田弥三郎氏が、定年退職後、洗足学園魚津短期大学(以後、魚津短大)の教授として魚津に赴任したことに遠因を求めることができる。この国文学者であり民俗学者でありタレント学者のハシリでもあった氏の大学女子野球との関わりは、著書『魚津だより』(毎日新聞社)に詳しいので、ぜひご一読いただきたい(池田氏は82年に急逝)。
当時池田氏と一緒に赴任した教員の中に、現在日本女子野球協会相談役を務める春日利比古氏がおり、「それぞれの教員が得意としている分野のクラブを作ってみては」という池田氏の提案を受け、春日氏が女子軟式野球部を立ち上げたという。それがどのようにして全国大会につながっていったのか、春日氏は次のように語る。
「私が魚津短大に赴任した年、神戸山手女子短期大学へ赴任していた慶応大学大学院の後輩であった藤原茂樹君(現慶応義塾大学文学部教授)が女子野球部を立ち上げました。
そこで私も81年4月にチームを立ち上げ、その年の6月から2チームによる定期戦が行われるようになりました。そうしますと、マスコミからの問い合わせや他大学からの問い合わせが増えてきたため、問い合わせのあった大学をいくつか訪ねたうえで、地元の有力者や市役所幹部と協議しながら、地域振興策の観点もふくめて全国大会を企画したわけです」
こうして86年、魚津短大、神戸山手女子短期大学、跡見学園女子大学、産業能率短期大学の4チームで交流戦が行われ、同時に魚津短大の小野山卓爾学長を理事長として全国大学女子軟式野球連盟も結成された(現在の名称は全日本大学女子野球連盟)。そして翌87年、第1回大会が8チームを集めて開催されたのである。
このあと各地に傘下の大学女子野球連盟が生まれ、地域でリーグ戦が行われるようになったが、全国大会出場のための予選という位置づけにはなっていない。チーム数の問題もあり、参加したければどのチームにも出場の機会を与えるのがこの大会のスタンスだ。
余談ながら現在全日本大学女子野球連盟と全日本女子軟式野球連盟が採用している一般より小さいグラウンドサイズ(バッテリー間17メートル、塁間25メートルなど)は、大会創設時、当時の選手のレベルを考慮して2つの連盟が歩調を合わせて導入したものだと春日氏は言う。
連盟と魚津市と学生が三位一体で運営
参加者の数は順調に伸びていったが、98年の587人をピークに漸減し、2001年の411人を底に、再び上昇に転じている。(図1参照。資料提供/全日本大学女子野球連盟)
この間に何があったのか。それは魚津短大が02年に閉校したことが原因だと考えられる。魚津短大の人たちが役員の多くを占めていた連盟が、閉校に至るまでの数年間で弱体化し、大会の存続すら危ぶまれる状態になったのである。
そのとき立ち上がったのが魚津市の皆さんだった。「選手たちの目標である夢の舞台を守ろう」と新たな組織「魚津市実行委員会」を立ち上げ、市民の力で大会を存続させたのである。そしてその努力の結果が02年からのV字回復なのである。
連盟は08年に中澤興起千葉商科大学教授を中心に新たな規定を作り、組織の建て直しと強化を図った。すなわち大学野球の連盟である以上、理事は参加大学の教員がなり、その中から会長をふくむ役員を出すこと、部長には大学教員が就くこと(監督はこの限りではない)、諸々の懸案事項は理事会で決定することなどを決めたのである。
そんな当たり前のことを? と驚かれるかもしれないが、かつては組織作りより、まず大会を開くということが優先されたのかもしれない。
こうして全日本大学女子野球連盟と魚津市実行委員会が手を取り合って全国大会を運営するようになったが、2008年には学生たちが「私たちも何か手伝いたい」と申し出て「学生委員会」を結成。各大学最低1人は委員を出して、運営をサポートするようになった。12年には学生審判員制度(二塁と三塁の塁審を学生が務める)を導入し、さらに学生の祭典の色合いを強めている。
大学野球部の実態と日本体育大学の強さの秘密
まだジリジリと暑い8月27日。魚津桃山野球場で行われた第26回大会準決勝に駒を進めたのは、日本体育大学(以後、日体大)、東京女子体育大学(以後、東女体)、日本女子体育大学、至学館大学(旧中京女子大学)の4つだった。一般大学に比べて体育大学が強いのは仕方がないが、なかでも日体大は過去参加した24大会のうち15回も優勝するなど、強さが際立っている。それだけに「打倒日体大」を掲げるチームは多い。
ここで大学チームとはどういうものか紹介しよう。
大学野球チームには大学自治会(または学友会)公認の「部」と、非公認の「同好会」があり、前者には自治会費から部費が支給され、後者には支給されない。部費の額は大学によってまちまちだが、たいていどこでも消耗品の補給や登録料などで消えてしまい、とても遠征費まではまかなえないという。それでもあるとないとでは大違い。だから学生たちは早く部に昇格させようと懸命に実績作りに励むのである。
基本的に学生は自分たちで年間予定を立て、練習メニューを組み、グラウンドの手配も自分たちでやる。スコアブックをつけるのも学生なら祝勝会の手配をするのも自分たちだ。そこにはお茶当番の母親の姿もなければ、道具を買ってくれる父親の姿もない。「今頃になって自分がどんなにたくさんの人に支えられて野球をしてきたかわかります」と言った選手がいるが、本当に何もかも自分たちでやるのが大学野球なのだ。
専用グラウンドを持っているところはごくわずかで、良くて他の部活と共用しているか、学内の使われていない運動場やテニス場を使ったり、抽選で公共のグラウンドを取るなどして練習している。体育大学ですらそういう状況で、環境としてはかなり厳しい。
指導者で最もよく見られるのはOGが監督やコーチを務めるケースだ。中には監督だけ外部の野球経験者に頼んでいるところもあるが、一般的ではない。
そんななか、唯一独自のシステムをもっているのが日体大。各学年に指導者が1人つき、その学年を責任もって指導するのだという。そして自分の学年が4年生になったとき、その指導者がチーム全体の監督になる(10年ほど前までは学生コーチとは別に専任監督がいたそうだが、現在はいない)。
「毎年学内に選手募集のビラが張られるんですけど、その紙には一緒にコーチ募集って書いてあるんです」
とある学年のコーチを務める男子学生は言う。そしてそのビラを見た学生が立候補し、複数応募した場合は練習の様子を見て上の学年のコーチたちが最もふさわしいと思う人を選ぶのだという。
「応募するのはたいてい野球経験者の男子です。人気がある仕事かと聞かれると違いますけど、自分は将来教員になりたいので、指導の勉強がしたくて応募しました」(前出の学生)
「だから日体大は強い」のだけれど、実はずっと野球を続けてきた人は4割にも満たないのだという。高校女子硬式野球部から大学に入っても一般の硬式クラブチームに入ってしまうケースもあるし、地方ではまだ高校で野球をする環境がないからだ。
それでも強い日体大を求められるのは選手にとっても指導者にとってもシンドイと思うのだが、野球未経験でも運動神経は抜群。学生コーチに鍛えられてどんどん伸びていくのだという。
「野球経験豊富な男性コーチはすごく頼りになりました。女子だけだと馴れ合いになることもあるけど、それがなく、勝つための野球を教えてもらえたのも恵まれていたと思います」とあるOGは語る。
学生コーチを務めた男性が、卒業後、女子クラブチームの指導者になることもあるそうなので、この日体大のシステムはなかなか優れているのかもしれない。
最多出場は跡見学園女子大学の26回
全国大会の記録(図2。こちらから → )を見てみると面白いことがわかる。プレ大会をふくめ、ほぼ皆勤なのが跡見学園女子大学だ。出場しなかったのは2001年の第15回大会のみ。全国大会を立ち上げた魚津短大をはじめ草創期のチームが姿を消すなか、今でもチームを維持し、関東大学女子軟式野球連盟でリーグ優勝を重ねているのは驚きだ。
優勝チームの変遷を見てみると、第15回大会までは北陸のチームが強かったことがわかる。具体的には第2~6回大会(88~92年)は富山女子短期大学が、第4~15回大会(90~01年)は金沢学院大学(前身の金沢女子大学時代ふくむ)が強く、魚津短大も3位とはいえ、第1~11回大会(87~97年)までの11年間、8回入賞している。
しかしその北陸勢を脅かし続けたのが第3回大会(89年)から参戦した日体大だ。日体大が参戦すると富山女子短大も金沢学院大学も日体大と優勝争いを繰り広げるようになり、特に金沢学院大学と日体大のデッドヒートは12年にも及んだ。
その後、部員不足などが原因で金沢学院大学が勝てなくなると、大会は日体大の一人勝ちに。第16~22回大会(02~08年)には前人未到の7連覇を達成し、その強さは現在でも維持されている。
その他の体育大学も負けてはいない。コンスタントに入賞しているのが東女体で、93年に初参加初優勝を成し遂げると、その後は11年まで入賞しない年はなく、09年には16年ぶりの優勝をもぎとった。また日本体育大学女子短期大学も第14~21回大会(00~07年)の間に何度も入賞を果たしており、09年には大阪体育大学が準優勝し、12年には日本女子体育大学が初優勝をおさめた。
体育大学以外で気を吐くのはスポーツ系の学部をもつ至学館大学(旧・中京女子大学)だろう。第17~24回大会(03~10年)までほぼ毎回準優勝や3位に入り、12年は準決勝で日体大を破って5回目の準優勝に輝いた。このほか川口短期大学が準優勝1回、早稲田大学が3位入賞3回、中京大学が3位に2回入賞しているのが光る。
悔し涙、歓喜の涙、熱烈応援団。魚津には青春が溢れている
さて2012年の桃山野球場に目をもどそう。
魚津の全国大会で有名なのは、なんといっても体育大学の応援団。準決勝では日体大の水色のユニフォーム、東女体の赤のユニフォーム、日女体の紺のユニフォームがスタンドを揺らした。応援歌もすごいパワーだ。歌ったり踊ったり、スタンドの学生たちの運動量は選手と同じか、それ以上だったと思う。
スタンドを下りて球場の外に出ると、アップをしている選手もいれば売店の売り子を務めている選手もおり、また友達と仲良くおしゃべりしている学生もいる。
「この大会を目標にいつも練習しています」「自分はふだん富山まで来ることがないので、この大会がメッチャ楽しみです」「この大会に出るためにがんばってバイトしてお金貯めてます」
選手たちは皆笑顔で口をそろえる。やはり学生たちにとって魚津の全国大会は夢の舞台であり、聖地なのである。
写真の上にカーソルを合わせると写真の説明が現れるので、ぜひ大会の雰囲気を味わってほしい。
●日本女子体育大学の応援団
●日本体育大学の応援団
●東京女子体育大学の応援団
●至学館大学の応援団
●悔し涙…
●学生さんたち
●魚津市民も観戦&応援に
●裏方の皆さん
●そして優勝した日本女子体育大学の皆さん
「第26回 全日本大学女子野球選手権大会」参加チーム
2012年8月24~29日
●愛知医療学院短期大学 愛知医療学院BETZ
●桜花学園大学 OHKA
●上智大学 SOPHIA MAMUES
●武庫川女子大学 武庫川女子大学野球同好会
●至学館大学 至学館大学軟式野球部
●園田学園女子大学 軟式野球部Zelkova
●椙山女学園大学 Dreams
●日本女子体育大学 DUCK BILLS
●東京女子体育大学 東京女子体育大学
●跡見学園女子大学 VIOLETS
●富山大学 Pretty
●日本体育大学女子短期大学部 NITTAN
●大阪体育大学 Braves
●日本体育大学 NITTAI
●大阪芸術大学 Albatross
●多摩美術大学 多摩美術大学女子野球部
●中京大学 中京大学女子軟式野球サークル
●早稲田大学 WASEBI
●東京海洋大学 Seagulls
●和洋女子大学 和洋女子大学
●立正大学 女子軟式野球愛好会COSMOS
●金城学院大学 金城Lilys
●富山短期大学&富山国際大学(合同) トミタン
●皇學館大学 皇學館大学MIRACLES
●千葉商科大学 千葉商科大学女子軟式野球部
大学野球がくれたもの
第2部 女子野球の底辺を広げていったOGたちの物語
第3部 大学野球から得たもの、そして未来