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群馬県の記録

 関東を知れば見えてくる、現代女子野球の源流

第4章 群馬県の記録「そのとき現場は」 

昭和52年4月創部の前橋中央レディースと、その少しあとにできた前橋中央ヤングレディース

※文中の女子野球とは、すべて女子軟式野球のことを指します。
※当時のチーム区分で「一般」は高校生以上、「少女」は小学生、中学生、または小中学生チームを意味します。

前橋中央レディースと群馬県の女子野球

 あまりにも強くて、全国の女子野球関係者でその名を知らぬ者がなかったのが、「前橋中央レディース」だ。昭和52年(77年)4月に創部され、昭和57年ごろまで活動した。

 作ったのはスポーツ用品店(前橋市)とバッティングセンターを2軒(前橋市と藤岡市)経営する、相川尭(あいかわたかし)さんだ。
 当時中学1年生だった神戸知子(かんべともこ。旧姓・木村知子)さんは、女子野球チーム創部の話を聞いて飛びついた。
「友達の安原由佳さんが、相川さんが経営していた藤岡市のバッティングセンターでスカウトされて、それで安原さんが『あなたピッチャーできるでしょ』といって私に声をかけてくれたんです」

 神戸さんも安原さんも野球が好きで好きでたまらない野球女子。周りには他にもそういう子がたくさんいたが、当時はまだ全日本軟式野球連盟が女子の登録を認めていなかったので、女だとバレないように頭を刈り上げて、少年野球の試合に出ていた子もいたという。

結成間もないころのチーム。前列中央が初代監督の相川さん

 神戸さんも少年野球チームには入れなかったが、小中学校のクラス対抗試合のときは、彼女の野球好きを知っている男子が必ず声をかけてくれて、試合に出ていた。小学生のときから体が大きく、中学1年のときは身長160cm近くあった神戸さんは、その体格を生かして速球をビシビシ投げ、三振をとる投手だったという。

 前橋中央レディースにはそんな野球女子(小中学生)が15人ぐらい集まり、前橋中央小学校で練習しては、たまに男子チームと試合をしていた。

 県内には他に女子野球チームがなかったため、珍しがって地元の新聞やテレビが紹介したこともあり、当時小学4年生だった中里通子(旧姓・橋本通子)さんは、
「テレビで中央レディースのことを知って、母に探してもらいました」
 と言う。中里さんも「野球がやりたくてやりたくて」という熱心な野球女子で、毎週末の練習も苦ではなく、前橋市から藤岡市に引っ越してからも、電車で休まず通ったという。

 そんなチームを女子大会に誘ったのは、JBBS(日本少年野球学校)の日野晴雄代表だった。日野さんはたぶん、新聞やテレビを見て前橋に女子チームがあることを知ったのではないだろうか。

画像の説明

 そして創部して半年ほどたった52年11月5日、チームは川崎球場で行われた小中学生の関東大会に出場し、見事に優勝したのである。

 神戸さんは言う。
「大会には『野球狂の詩』の作者、水島新司さんが来て、始球式で投げたんですよ。
 1回戦の滝山コメット戦は緊張でギリ勝利して、決勝のJBBSエンゼルス戦は、うちが満塁ホームランを打って優勝しました。女子で野球ができたこと、毎日努力してきたことを生かせたことが、すごくうれしかったですね。女子にはいくら努力しても生かす場所がなかったですから」

 チームにはさらに選手が集まり、中学生中心の「前橋中央レディース」と小学生の「前橋中央ヤングレディース」の2つができ、53年8月の第1回全国大会に出場した(前者は少女の部で優勝)。

 その活躍に刺激を受けて、おそらく53年のうちに「レッド朝倉」(前橋市の朝倉小学校が拠点)、「高崎ブルーヤンキース」(高崎市上並榎木町)ができて、54年3月、前橋中央レディースとヤングレディースを加えた4チームで全国大会予選が行われた。

 チームが増えれば日本女子野球協会群馬県支部ができそうなものだが、2代目の監督だった江野沢浩市さんによると、「チーム数が少なかったので、支部は作りませんでした」とのこと。

 残念ながらレッド朝倉は第2回全国大会に出たあと、まもなくソフトボールチームに転向したらしく、残ったのは前橋中央レディースと高崎ブルーヤンキースだけだった。

 ところで群馬県で、他県のチームが参加する大きな大会が開かれたことはあったのだろうか。
「ほとんどなかったと思います」と神戸さんは言うが、57年5月に大会があったことは覚えているという。
 東京都町田市のオリオールズレディースの記録には、この月、「日本女子野球東京都協会・前橋大会」が開かれ、オリオールズレディースが優勝したとあるので、きっとその大会のことだろう。県外のチームが遠征してきた、数少ない機会だったに違いない。

昭和54年8月に埼玉県で行われた第2回全国大会。左から3人目が江野沢監督

 前橋中央レディースは、57年8月の第4回全国大会(北海道開催)に出場したことまではわかっているが、いつまで存続したかはわからない。おそらく江野沢監督が57年3月に母校の前橋高校硬式野球部の監督になってチームを離れたために、自然消滅したのだろう。(江野沢監督は第4回全国大会にだけは、中央レディースの一般の部を率いて出場している)。

 高崎ブルーヤンキースは関東大会を主催していた「関東女子野球連盟」に加盟しており、57年3月の「第4回関東女子野球総会」の記録にその名がある。しかしこちらもいつまでチームがあったのかはわかっていない。
 
 群馬県に再び女子野球の灯がともるのは、平成22年(2010年)に「前橋ガールズ」が誕生してからである。まったくの偶然だが、2代目監督の中島弘之さんは、前橋高校時代に、江野沢監督の指導を受けた人だった(県大会で優勝)。人の縁とは不思議なものである。

江野沢浩市監督とエースの物語

 前橋中央レディースを立ち上げた相川尭(たかし)さんは、実は52年11月の関東大会のあと急逝している。そのため、翌53年4月の第1回春季関東大会からは、メンバーの江野沢幸子さんの父、浩市さんが監督を引き継いだ。52年の関東大会のときからコーチをしていた縁だったという。

後列左端が江野沢監督

 江野沢さんは前橋高校→学習院大学→熊谷組でプレーした、筋金入りの野球人。昭和33年に学習院大学が、東都大学野球1部リーグで「奇跡の優勝」を果たしたときの四番バッターだ。

 そのときの恩師、島津雅男監督は、女子ノンプロ野球チーム「わかもと製薬」を率いたことがある。その穏やかで差別をしない人柄については、「シリーズ指導者たち 高橋町子」の項で紹介したが、江野沢監督も同じような指導をしたらしい。

「怒るのではなく、諭すように指導してくださいました。私は三振を取りたくて力(りき)むクセがあったのですが、第1回全国大会のとき、やっぱり力んでしまったのです。そうしたらポンと軽く頭をたたかれて、『得点見ろよ』と。点差があったんですね」(神戸さん)

 技術指導もしっかりしており、「捕って投げるのを速くしなさい」など、基本から教えてもらったという。当時の少女大会は変化球が使えたので、「スライダーを教えてもらいました」とのこと。また「配球は捕手の安原さんが丁寧に教えてもらっていました」。

 これで強くならないわけがない。チームはメキメキ頭角を現し、53年の第1回春季関東大会こそJBBSエンゼルスに優勝を譲ったが、夏の第1回全国大会では決勝でJBBSエンゼルスを破って、参加24チーム(少女の部)の頂点に立った。

『ジュニアベースボール』11月号(ベースボール・マガジン社)。無断転載を禁じます

 以後も55年の「第2回女子野球選抜大会」(大阪府)、「第3回全国大会」(55年か56年に開催。開催地不明)、55~57年の「春季関東大会」で優勝。
 
 54年の第2回全国大会は準優勝だったが、神戸さんは「中学最後の夏」を次のように振り返る。
「実は準決勝の大阪ドリームガールズ戦で肉離れを起こしてしまったんです。でも子どもなので痛み止めの注射を打つことはできません。それでそのまま決勝(JBBSエンゼルス戦)でも投げたのですが、思うような投球ができなくて1-2で敗れました。
 でも精いっぱいやった、やりきった、という思いで悔いはありませんでした。本当に努力が報われた、充実した3年間でした」

 高校に進学した神戸さんはソフトボール部に入部。
「本当は丸刈りでもいいから野球部に入りたかったんですけど、許されませんでした」

 野球への思いを、神戸さんは3人の子どもたちに託した。長男、次男、長女、みんな野球をやり、母は毎日一緒にキャッチボールをした。そして前橋中央レディースでの経験と、やりきることの大切さを教えたのである。

 その次男、神戸文也さんは、前橋育英高校から立正大学に進み、平成28年(16年)、オリックス・バファローズに育成選手として入団した。182cmの大柄な投手は、母の教えを胸に、支配下登録を目指して精進する日々だ。

 40年前、野球に青春を捧げた少女と、彼女を育てた人々の思いが、一人のプロ野球選手を生んだのである。

※写真提供/中里通子、田中宏美(ともに前橋中央ヤングレディースOG)

■番外編■
少年の日の思い出。前橋中央レディースとの試合

 それは昭和52年、少年Nが6年生の時のことだった。前橋中央小学校で、Nが所属する少年野球チームと前橋中央レディースの試合が行われた。相川監督がレディースを率いていた、初期の時代のことだ。

 Nのチームはエースが肩を痛めていて欠場し、代わりに1つ年下のK君が投げることになった。
「それでも女は男にかなわないだろうから、エースじゃなくても充分勝てると思っていました」

画像の説明

 ところが試合が始まってびっくり。
「女子がみんな、背中を丸めるようにして前のめりに構えてきたんです」

 彼女たちのヘルメットはホームベースの上。まるで当たってもいいと言わんばかりの構えに、K君はあせった。懸命にストライクを狙うが、相手は女子。背が低くてストライクゾーンも狭い。そのうえ悲しいかな、エースではないK君のコントロールは今一つ。みるみるうちに四死球の山を築き、押し出しに次ぐ押し出し。

 たまらず監督は投手交代を告げたが、状況は変わらない。投手経験のあるNも投げたが、
「これじゃ投げる所がないよ」
 頭にきた。
 球審に「投球妨害だ」と抗議したが、聞き入れられない。
「こんなのありかよ。ずるいよ」
 しまいには当たってもいいやと開き直って投げたが、案の定四死球を連発し、あえなく降板。Nのチームは投手が何人代わったわからないほどだった。

 悪夢のような時間が流れ、試合は結局「25対23ぐらい」でレディースの勝ち。
「エースが投げてさえいれば」
 Nたちは唇をかんだ。
 そのNに追い討ちをかけたのは、この試合の様子を報じた上毛新聞の記事だった。
「中央レディース 初勝利」
 
 悔しかった。あんな形で負けたこと、それを新聞に書かれたこと。
「やってられるか」
 悔しさと屈辱感のあまり、Nはその日をもってきっぱりと野球をやめた。

「忘れようとしても忘れられない試合です」
 40年たった今、Nは感慨を込めて語った。

                  

※このエピソードは、当サイトに寄せられたメールがきっかけで取材執筆したものです。前橋中央レディースの名誉のために付け加えると、相川監督から「当たってもいいから前に出ろ」という指示が出たことはないそうです。いつも言われていたのは「全力でやりなさい」ということ。なんとしても勝ちたいという気持ちとあいまって、選手たちの体が自然と前のめりになったのではないでしょうか。

取材協力/江野沢浩市(元前橋中央レディース監督)、神戸知子(前橋中央レディースOG)、中里通子(前橋中央ヤングレディースOG)、中島弘之(元前橋ガールズ監督)、長岡正己(元オリオールズレディース監督)

参考資料/昭和53年、54年、57年の「女子野球日本選手権大会」および、58年の「日本女子軟式野球選手権大会」のパンフレット、「第2回女子野球春季関東大会」(54年)ほか関東開催の各種大会パンフレット、『ジュニアベースボール』53年10月号、11月号(ベースボール・マガジン社)、「ボク顔負け 少女野球」(神奈川新聞52年11月7日)ほか

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