女子野球情報サイト 

鈴木慶子

 2014年3月2日

シリーズ 指導者たち⑩

鈴木慶子(「町田スパークラーズ」「ファー・イースト・ブルーマーズ」監督)

指導者として私ができることは、若い選手に
海外でプレーする場を提供することです

画像の説明

Keiko Suzuki

1968年(昭和43年)5月20日、東京都大田区生まれ。小学4年生のとき神奈川県の女子チームで野球を始め、大学2年で「町田スパークラーズ」に入団し、全国大会優勝2回。1995年に渡米し、フロリダの「ディリオン・スプリングス・ダイヤモンズ」「オーランド・ドラゴンズ」「フロリダ・レジェンズ」でプレーする。リーグ消滅に伴って98年に帰国し、「町田スパークラーズ」でプレーするかたわら、01年に「ファー・イースト・ブルーマーズ(Far East Bloomers)」を立ち上げ、海外の大会にも参加している。

(文中敬称略)

子どもの女子リーグの中でスタートした野球のキャリア

 伝説の人である。アメリカの女子プロ野球リーグでプレーした初めての日本人、というのが鈴木に与えられた称号だ。彼女は、どんなふうにそのキャリアをスタートさせたのだろう。

「生まれ育った家庭ですか? 野球環境は全くなかったですね。父には野球経験がなかったので、時々一緒にプロ野球中継を見るぐらいでした」

野球を始めたばかりの小学3年生のころ。緑スネークスのユニホームをもらったのがうれしくて撮った写真

 しかしまだ幼かった鈴木が父のひざの上で見たものは、首位打者、本塁打王、MVPと、数々のタイトルに輝く王貞治の姿だった。
「私、王さんと誕生日が一緒なんですよ。だから幼稚園に入る前から、自分は野球をやる運命なんだ、絶対プロ野球選手になるんだって思っていました(笑)」

 お花屋さん、ケーキ屋さんといった小さな女の子が抱きがちな夢とはかけ離れた娘の思いを、両親は面白がり、小学4年生のとき、子どもの女子野球チーム「緑スネークス」ができると聞いて入団を勧めてくれたという。

 鈴木が小学生だった1970年代後半、関東には小中学生の女子チームが10以上あり、お互いに交流戦を重ねていた(「全日本女子軟式野球連盟」川越宗重会長談)。「緑スネークス」(78年創部)もその一つで、ほかに77年創部の「横浜ガールズ」(神奈川県)、「前橋中央(ヤング)レディース」(群馬県)、「ドリームウィングス」「滝山コメット」「ジュニアフラワーズ」「JBBSエンゼルス」などがあった(すべて東京都)。

1978年(昭和53年)8月の第1回全国大会・少女の部。なんと全国から24チームが参加した(於・川崎球場)

 全国大会も開催され、一般の部も少女の部も、大変な盛り上がりを見せていた。(右の写真参照)

 こうした女子リーグの中で野球を始めた鈴木は、中学になっても「緑スネークス」でプレーし、高校ではソフトボール部と兼部しながら野球を続けた。誘われて大学2年のときに入団した女子軟式チーム「町田スパークラーズ」では四番、ファーストとして活躍し、チームは関東大会で優勝を重ね、92年と94年には全国大会でも優勝した。

「本当に関東では敵なしっていう感じでしたね。チームはとても強かったですし、自分の実力にも自信をもっていました」

プロチーム「コロラド・シルバーブレッツ」のトライアウトに挑戦

 全国大会で2回目の優勝を遂げたその年の秋、鈴木は知人からの電話で、アメリカの女子プロ野球チームがトライアウトを行うことを知った。ビール会社「クアーズ」がネーミング・スポンサーとなった「コロラド・シルバーブレッツ」だ。

コロラドs

「コロラド・シルバーブレッツ」
 元広報部員 福澤秋后

 夢にまで見たプロ野球。
「アメリカに行けばプロ野球選手になれるんだ。トライアウトに挑戦したいって思いました。面白そうだからやってみようという好奇心やアメリカで腕試しをしたいという思いもありました」
 このとき鈴木26歳。すでに結婚適齢期を迎えていたが、両親は「結婚しなさい」とはひと言も言わず、「長年の夢がかなうなら」と応援してくれたという。

 一方、全国大会優勝チームの選手が米プロ野球のトライアウトに挑戦、というニュースは、当時全国大会の後援をしていた日刊スポーツ新聞社によって記事になり、話題になっていた。

「幸運なことに、その記事を見たスポーツジャーナリストでメジャーリーグ解説者の福島良一さんが、『君、アメリカで誰か助けてくれる人はいるの?』と声をかけてくださいました。『誰もいない』と言うと、『じゃあ僕でよければ色々手伝ってあげる』と言って、フロリダに住むプロモーション会社社長で撮影コーディネーターの宮内敬一さんを紹介してくださったのです。

 福島さんと宮内さんは手分けして航空券やホテルの手配、トライアウトの手続きなどをやってくださって、私がトライアウトに専念できる状況を作ってくださいました。福島さんは元々メジャーリーガーになりたいという日本の男子選手をバックアップしていて、その一人として私も応援してくださったのです」

 こうして非常に恵まれた状況の下、仕事をやめて渡米した鈴木だったが、受かる保証のない挑戦。不安はなかったのだろうか。
「硬式ということに対する不安はありました。なにしろ軟式しかやったことがなかったので。それで硬球で練習したり木のバットで練習したりしました。なぜ木のバットかというと、シルバーブレッツは男子と対戦するチームだったので、最初のころは男子と全く同じルールでやろうとして木のバットを使っていたからです。
 私はふだんは金属バットを使っていたので、ミズノの直営店に新しい木のバットを買いに行きました。冬のある時期、プロ野球選手が使わなかったバット(※)が店頭に並ぶんですよ。そのなかから少しでも振り抜きのいいバットを探して、それで練習してアメリカに乗り込んだっていう感じです」

 そして迎えた95年1月のトライアウト。

フロリダsinn

 フロリダ州フォートマイヤーズで行われた1次テストでは、塁間のタイムを測り、野手は自分のポジションについてノックを受け、正面と逆シングルの捕球などを審査されたという。

 幸いその日の午後に行われた試合形式の2次テストに進んだが、
「玉砕という感じでしたね。アメリカの受験生たちは一部ソフトボーラーがいたぐらいでほとんどが野球をやったことがない人たちだったんですけど、みんな体は大きいしパワーはあるし投げる球は速いし。私ってなんてちびっ子なんだろうと思いながらプレーしていました。
 しかもアメリカの選手のほとんどはちゃんとしたストライクが投げられないので、守備についていても(左利きなのでファースト)、とんでもない所に強いショートバウンドがガンガンくるわけです。それをはじきまくりで。『もう全然だめ。練習不足、練習不足』と思いながら受けていました」

 監督のフィル・ニークロが投手を務めるバッティングテストでも、
「思ったようなスイングができなくて、ああ、もう落ちたなと思いました」
 
 鈴木の予感は当たり、残念ながらシルバーブレッツのトライアウトに合格することはできなかった。

※プロ用に作られたNPBの承認マークが入ったバットながら、プロが使わなかったバットのこと。現在では販売されていない。

悔しさを胸にフロリダの女子リーグへ

98年、「フロリダ・レジェンズ」の一員として開幕戦の打席に立つ鈴木。(於・ニュージャージー州のスカイランズパーク)

 しかし鈴木は落ち込まなかった。
「もうすごい悔しくて、来年絶対受かってやるって思いました。でもそのためには日本で軟式をやっているだけじゃだめだ。硬式で練習しなきゃいけないし、アメリカのグラウンドにも慣れなくちゃいけない。それにトライアウトのとき、監督コーチから出された指示がわからなかったから、英語の勉強もしなくちゃいけない。
 そう思っていたら、宮内さんからフロリダに女子プロ野球リーグや女子チームがあると聞いて、じゃあフロリダで今シーズンを過ごしてみたいと言ったんです。それでまた福島さんや宮内さんがフロリダのリーグのテストを受けられるようにしてくださって、『ディリオン・スプリングス・ダイヤモンズ』に入団しました」

 ここで少し90年代のアメリカ女子野球の状況を見てみよう。注目すべきは92年、トム・ハンクス助演で映画『プリティ・リーグ』が封切られたことだ。アメリカには第二次世界大戦中から戦後にかけての12年間(1943~54年)、「オールアメリカンガールズ・プロフェッショナル・ベースボールリーグ」と呼ばれる女子プロ野球リーグが存在し、この映画はそれをモデルにしたものだ。

 その影響かどうかはわからないが、93年にコロラド・シルバーブレッツが誕生し、
「私がアメリカに渡った95年ごろは全米で女子野球熱が高まり、各地に女子プロ野球リーグができていました。フロリダは特にそれが盛んだったのです」(鈴木)

 では当時の「女子プロ野球リーグ」とはどんなものだったのだろう。実際にトライアウトを受けた人やアメリカ女子野球事情に詳しい人によると、スポンサーがついて練習環境も整い、きちんと給料も支払われるチームがあった一方で、平日は野球以外の仕事をして週末だけ試合をし、給料も出ないというクラブチームのようなところもあったという。それゆえに本当の意味でのプロリーグではないと指摘する人たちも多い。

 しかしその実態はさておき、「プロ野球リーグ」という名前はアメリカの選手たちはもちろん、日本人選手の心をも引きつけるに充分な魅力をもっていたのである。

相性が良かったフロリダの大らかな野球

「シルバーブレッツのトライアウトは結局95年と96年に挑戦しただけで終わりました。フロリダのリーグでやるのがすごく楽しくて、ずっとフロリダで野球を続けてしまったので(笑)」

左から鈴木、「フロリダ・レジェンズ」コーチのマイク、監督のブリジット、山元保美、福島良一の各氏

 95年の「ディリオン・スプリングス・ダイヤモンズ」を振り出しに、96~97年は「オーランド・ドラゴンズ」で、98年は「フロリダ・レジェンズ」でプレーした。
 
 とはいえビザの関係で数カ月のシーズンが終わると日本に帰国し、アルバイトをしてはお金をため、またアメリカに渡って野球をするという生活だったという。

 そうまでして続けたかったフロリダの野球とは?
「すごくほめてくれるし、楽しむ野球でしたね。ほめて伸ばすという感じで。フロリダはキューバとかラテン系の人が多くて、しかも入ったチームはどこも強かったので雰囲気はすごく明るかったです。反省会? やったことなかったですね(笑)。負けてもまた明日がんばろうみたいな。
 プレーの面では大雑把でしたね(笑)。送りバントはないし投手戦もあまりない。打って点を取り合う打撃戦が多かったです」

 足が速かった鈴木はそれを武器にレギュラー争いに加わり、ファーストの守備でも「ケイコならどんなに低い球でも捕ってくれる」というチームメイトの信頼を得たが、打撃重視の野球は体の小さな鈴木にとって苦しい面があったという。
「1年目は何度もスリーベースを打ったんですけど、2年目以降はチームのレベルが上がったこともあってシングルヒットが多かったと思います。ボールにパワーがあるのでもう全然飛ばないんです。宮内さんに『たくさん食べなさい』と叱咤激励されましたが、いくら食べても太れなくて…。打順は下位が多かったですし、2年目3年目はスタメン出場は半分ぐらいでした。厳しかったですね。でもそうしたことをふくめて、フロリダの野球は私に合っていました」

「オーランド・ドラゴンズ」の選手としてファンにサインをする鈴木。(フロリダ州のティンカーフィールドにて) 温厚な鈴木が珍しく審判に抗議、の図

 しかし「フロリダ・レジェンズ」に移った98年、鈴木を衝撃が襲う。
「シーズンが始まったころは打率が悪く、それがすごい悔しくて、よし、これからがんばろうと思っていた矢先にリーグが消滅してしまったのです」

 同チームが所属していた「レディース・プロフェッショナル・ベースボールリーグ」は前年に4チームでスタートし、この年本格的に始動した東海岸の3チームと西海岸の3チームが所属するリーグだったが、スポンサーが撤退し、シーズン開始後わずか3週間でなくなってしまったのだ。
 チームも活動を休止。来年はリーグが再開されるかもしれないという噂が飛び交ったが何の保証もなく、後ろ髪を引かれる思いで98年8月に帰国した。

鈴木がもたらした日本の女子野球の国際化 

 不完全燃焼のまま終わった鈴木のアメリカ生活だったが、その活躍は日本の新聞やテレビで取り上げられ、女子野球選手たちに大きな影響を与えた。

 まずたくさんの選手にアメリカ挑戦の夢を抱かせたこと。95年1月に鈴木がシルバーブレッツの1次テストに合格した記事を読んで、同年2月に行われたシルバーブレッツ2回目のトライアウトには女子軟式チーム「東京スターズ」の有村朋子などが受験。98年にはソフトボール選手の柴田真紀子や山元保美、「札幌シェールズ」の石川加奈子、市川貴子がアメリカ東部に点在している女子野球チームのトライアウトを受けている。
(柴田は「ニュージャージー」に入団。山元は「フロリダ・レジェンズ」に入団し、後にボストンの「クーガーズ」「ボストン」へ。帰国後の2010年は女子プロ野球チーム「京都アストドリームス」でプレーした)

 また当時10代だった選手たちにも大きな影響を与えたが、これについては後述する。

 さて帰国した鈴木はアメリカのリーグの再開を待っていたが、なかなか朗報は届かない。すると福島が「アメリカの出方を待っていてもしようがない。春にフロリダで大会があるから、日本チームを作って参加しようよ」と提案してきた。

00年に西武ドームで行われた日米女子野球大会にて。左から新井純子、上田玲、柴田真紀子、鈴木

 早速興味がありそうな軟式や硬式の選手たちに電話をかけ、集まった20人でチームを編成。これが初の女子野球日本代表「チーム・エネルゲン」(硬式)(※1)で、2014年現在12期を数える日本代表は、このときのチームを第1期としてカウントしている。監督は元プロ野球選手で日本人初のメジャーリーガーだった村上雅則、主将は鈴木、エースは神村学園高等部の小林千紘(※2)だった。

 チームは99年4月に通称「全米女子野球選手権」(正式名称「第4回サウスフロリダ・ダイヤモンドクラシック」)と呼ばれる大会に参加した。

「一番最初の試合で整列した時のことでした。君が代が流れたのを聞いて鳥肌が立ったんです。アメリカの球場で君が代を聞く日が来るなんてって、体が震えました。もう自分一人じゃないんだって」

 フロリダの汗ばむような陽気のなか、選手たちは日本代表の誇りを胸にアメリカチームと戦い、入賞こそできなかったが2勝2敗と善戦した。

 こうして鈴木たちが開いた海外への扉だが、「チーム・エネルゲン」は2回目以降、遠征に力を貸した日刊スポーツ新聞社や大塚製薬などの発言力が大きくなり、鈴木の手から離れていった。

 そこで01年、「自分たちがやりたいようにできるチームを作ろう!」といって立ち上げたのが「ファー・イースト・ブルーマーズ」だ。「野球が好きで休みが取れて、遠征に行けるお金がある人なら誰でも参加できる」をコンセプトに、鈴木が監督を務める海外遠征専門チーム(硬式)だ。
 それ以来、アメリカ、オーストラリア、香港、カナダと、年1、2回のペースで行われる海外遠征は、13年までで16回を数える。

「昔一緒にプレーしていた選手や遠征のなかで知り合った人たちが今は大会を運営する側になっていて、私たちを誘ってくれるのです」
 アメリカのジャスティン・シーガル(IBAF女子委員会委員長)、キティ・アウ(香港棒球協会会長)、シモーヌ・ワーン(豪代表チーム監督)、ナレル・ゴストレー(豪U18 代表チーム監督)など、今や各国の女子野球界を代表する人々もいて、鈴木はこうしたグローバルな交流を、「海外に出ることによって得られた大きな財産」と言う。

※1 民間人や企業が編成したチームであるため、日本女子野球協会は「チーム・エネルゲン」を正式な日本代表ではなく、任意の日本代表としている。

※2 小林千紘はその後明治大学に進学し、01年5月28日、東京大学の竹本恵と東京六大学の春季リーグで投げ合い、話題になった。

海外でプレーしたからこそできること

「指導者として私ができることは、若い選手に海外でプレーする場を提供することです。それをどう生かすかは本人次第」
 と鈴木は言う。

ファー・イースト・ブルーマーズ初遠征のカット。IMGアカデミーにて(01年)

 ファー・イースト・ブルーマーズはまさにそのための活動だ。試合だけでなく、フロリダ遠征では宮内の協力を得て世界最大のスポーツスクール「IMGアカデミー」で選手たちを特訓してもらったりもするという。

「私が4年間アメリカでプレーできたのも、海外遠征を通して様々な経験を積めるのも、いろいろな人たちの応援と手助けがあったからです。人間関係にすごく恵まれたと思うし、だからこそ今度は私がみんなをサポートする側に回ろうと」

 その恩恵を受け、現在女子野球環境を作るのに尽力している人たちも多い。

 学生時代、ファー・イースト・ブルーマーズのオーストラリアやアメリカ遠征に参加し、のちにオーストラリアに野球留学した履正社レクトヴィーナス監督でIBAFテクニカル・コミッショナーの橘田恵は、
「鈴木さんがいなければ今の私はなかったと思います。実は高校1年生の夏、男子の中で明確な目標がないなか、黙々と野球を続けていくことが辛く、もう野球やめようかなと思っていたんです。でもアメリカの女子プロ野球リーグに挑戦した鈴木さんと山元保美さんの記事(朝日新聞1998年7月8日)と、2人が肩を組んでいる写真を見て、こんな世界があるんだ、ここを目標にプレーしよう! と思いました。
 鈴木さんの存在と海外遠征のおかげで野球を続けるモチベーションが保て、世界も広がりました」
 と言う。

 町田スパークラーズやチーム・エネルゲンの元メンバーで、何度も鈴木と海外遠征をしている横浜隼人中学高校女子硬式野球部監督の田村知佳は、

フェニックスカップでは優勝3回、準優勝2回。写真は11年の優勝時のもの。鈴木は前から3列目の右から2番目、田村はその隣

「遠征には鈴木さんから声をかけていただきました。香港で開催されるワールドカップに次ぐ位置づけの国際大会『フェニックスカップ』では、ファー・イースト・ブルーマーズが第1回大会から日本代表として出場していますが、そんなことができるのは実績や人脈がある鈴木さんにしかできないでしょう。とても貴重な経験をさせていただいています。
 私が横浜隼人高校で女子野球部を立ち上げるときも親身になって相談にのってくれた頼れる人です」
 と言う。

 日本代表や女子プロ野球選手として活躍する中島梨紗は、オーストラリアや香港に遠征した。
「19歳のときに初めて行ったオーストラリアでは、友達はできるし硬式グラウンドはたくさんあるしで、異文化交流がすごく楽しかったですね。当時すでに日本代表経験が2回あったにもかかわらず外国にも英語にも全く興味がなかったんですが、この経験ですっかり認識が変わりました。
 また監督として通訳として活躍する鈴木さんがすごくカッコ良かったし、アメリカ時代の話を聞いて、そういうこともできるんだと視野が広がりました。それで大学卒業後、オーストラリアに2回野球留学したのです。その経験がワールドカップで外国と戦ううえで役に立ったと思います」

これからも、ずっと現役にこだわって

 13年11月下旬、「町田スパークラーズ」を訪ねた。アメリカに行く前も帰ってきてからも、鈴木が活動の拠点としている軟式チームだ。肩書きは監督だが、現役への強いこだわりからその姿は選手とともにいつもダイヤモンドの中にあり、共に練習に汗を流している。

「人間関係に恵まれている」と言うとおり、鈴木の周りには不思議と善意の人が集まってくる

「34歳の時に前監督にチームを任せたいと言われたとき、『監督だけなら嫌です。プレイングマネージャーとしてならやってもいいです』と言って引き受けました。もっともっとプレーしたかったから。今でもまだ体は動けていると思っています」

 フロリダの大らかでポジティブな野球が性に合っていたというだけに、鈴木の指導は細かいことにこだわらない。
「私自身これが絶対正しいという指導法はもっていませんし、うちのチームにくる子はソフトボールや野球経験者が多いので、ちょっとしたアドバイスはしますが、基本、自分がやりたいことをやらせています。

言葉遣いさえ気をつければ何を言ってもいい、というのがチームカラー。若い人の「こういう練習をしたい」という気持ちも尊重する

 でも新しいことにチャレンジさせるのは好きですね。能力があるのに今一つがっちりレギュラーがつかめない子には「ここを直したら?」じゃなくて「こういう方法があるからやってみたら?」と言ってやらせてみます。うまくいかないことを指摘しても仕方がないので、良いところを見て伸ばしてあげる。その子の目がキラッとしたら成功ですね(笑)。

 もともと苦しい野球をしたくないんです(笑)。贅沢なんですけど楽しみながら勝つ野球がしたい。だから勝つためにお互いにちゃんとコミュニケーションをとって、思ったことを言い合いながら、みんなで考えていくチームでありたいと思っています。そして言った言葉には責任をもてと言っています」

 チームのモットーは「今できることをやれ」だ。
「たとえばコップに水がもう半分しか入っていないと思うか、まだ半分入っていると思うか、それを常に考えて行動しろということですね」

 その言葉はそのまま鈴木の生き様を表しているかのようだ。約20年前、まだ誰も経験したことがなかった世界に迷いもなく飛び込んで夢をつかんだ。常にベストを尽くし、日本の女子野球の国際化の道を切り開き、後進を育ててきた。
 鈴木の志と活躍が日本の女子野球の可能性を広げたのである。

関東の1部リーグで活躍する町田スパークラーズのみなさん


※写真提供/鈴木慶子(幼少期、第1回全国大会、アメリカでの写真、各種日本代表の写真)

powered by HAIK 7.3.7
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional