女子野球情報サイト 

プレスルームの窓から

コラム 2014年12月8日

プレスルームの窓から 第6回女子野球W杯こぼれ話

プレスルームからの眺め

舞台はサンマリンスタジアム宮崎

 日本が前人未到の4連覇をかけて戦った第6回女子野球ワールドカップ。私が開催地、宮崎市に駆けつけたのは9月5日午前中のことだった。
 大会はこの日から2次ラウンドに入ることになっていて、私同様、5日から現地に入ったマスコミや女子野球関係者も多かった。

宮崎市が誇るサンマリンスタジアム

 日本戦はすべて読売巨人軍がキャンプで使用する宮崎市のサンマリンスタジアム宮崎で行われた。地元タクシー運転手が「巨人様のおっしゃるままにお金をかけて作りましたから、あんなにいい球場はちょっとないですよ」と胸を張る、コンクリート4階建ての立派な球場だ。

 報道関係者が詰めるプレスルームはその3階にあった。横長に切られた大きな窓からは内外野とも天然芝の美しいグラウンドとそれを取り巻くすり鉢状の観客席が見渡せ、目を上げれば鰐塚(わにづか)山地の稜線をバックにスコアボードが黒々とそそり立っていた。こんなに眺めのいいプレスルームはそうそうあるものではない。

日本に惨敗したオーストラリア。その敗因

 5日の午後1時半からはAグループ2位のオーストラリアとBグループ1位のアメリカの試合が行われ、3-1でアメリカが勝利したが、オーストラリアは日本に0-14で惨敗したとは思えないほど投打、守備とも引き締まった戦いぶりを見せていた。

アメリカvsオーストラリア。アメリカの一塁手は名手、マライカ・アンダーウッド選手

 そもそもオーストラリアが日本にこんなにひどいスコアで負けるなんて誰も想像していなかった。なにしろオーストラリア野球連盟は2012年から15歳以下の女子大会を作って若手の育成に乗り出しているし、今回の代表チームには日本の「マドンナジャパン」に対抗するわけではないだろうが、「エメラルズ(エメラルドたち)」なんていうキラキラネームをつけてPRや募金活動をしていたからだ。たとえばこんなふうに→ オーストラリア野球連盟

 またオーストラリア野球連盟は今回オーストラリアソフトボール連盟と連携し、この大会の2週間ほど前に行われたソフトボールの世界選手権で銅メダルを取った、リー・ゴットフリーという選手を招聘してチームを強化したという。
「彼女はほとんどの試合にセンターとしてスタメン出場していましたが、肩は強いしバネはあるし足が速くて守備範囲も広い。文句なしにいい選手です」と、IBAFテクニカルコミッショナーとしてW杯に参加した履正社レクトヴィーナスの橘田恵(きっためぐみ)監督は言う。にもかかわらず日本に勝つことができなかった。

大差で勝った日本vsオーストラリア戦。先頭は志村キャプテン

 なぜか。日本の「相手投手のコントロールが悪ければ四球も選ぶ」野球に苦しんだからという見方が多い。特に2回裏、オーストラリアは四球を連発し、押し出しなどで合計12点を献上するという悪夢のようなイニングを経験した。

「オーストラリアをふくめ外国のチームは早打ちのところが多いから、あんまり四球が出ないんですよ。だから大倉監督の野球は脅威だったと思いますよ」
 と見ていた人は言う。

 参考までに外国チームが日本戦で出した四死球の数を紹介すると、オーストラリア11、香港17、ベネズエラ6、カナダ8、アメリカは2次リーグ3、決勝は4(オランダとは対戦せず)。アメリカ以外の国は日本に対し、全部4回ないし5回コールドで負けたから、単純計算して全イニング四死球を出していたことになる。これでは自分たちの野球をすることは難しい。大倉監督に限らず、四球を選ぶのも戦術のうちという日本の野球は、外国勢にとって確かに脅威だっただろう。

事前合宿した4カ国、受け入れた日本

 ところで今回4カ国が大会直前に日本で合宿し、現地の日本チームと調整を兼ねた親善試合をしたことをご存知だろうか。

参加国の旗などが飾られた球場の入口

 オーストラリアは大阪府で、カナダと香港は埼玉県で合宿したが、前者は先の橘田恵監督が、後者は埼玉栄高校の斎藤賢明監督や平成国際大学の濱本光治監督などが、彼の地のチームと交流していたご縁だという。

 面白いのは佐賀県嬉野市がオランダチームを誘致したことだ。嬉野市に問い合わせたところ、「20年の東京オリンピックや日本で開催される各種国際大会をにらみ、当地を外国チームの事前合宿地に育てたい。そのノウハウを養うために、佐賀県と協力してW杯参加チームを誘致しました」とのこと。オランダチームは神村学園や日南学園、関西から遠征したプール学院大学や神戸弘陵学園高校と親善試合をしたという。

 これほどたくさんの外国チームが開催国の胸を借りて調整したのはW杯史上初めてではないだろうか。逆にいえばそれだけ日本が外国人選手の指導に力を尽くしているわけで、女子野球のリーダー国ならではの出来事といえる。
 またこうしたご縁があったために、外国チームから頼まれてオーストラリアには履正社レクトヴィーナスの山岡未来選手がお世話係として、香港には関東女子硬式野球連盟の宮野友宣事務局次長がトレーナーとして入った。

 日本の最大のライバル、アメリカは、日本で直前合宿や親善試合をすることはなかったといい、それはやはり秘密保持のためだったのかもしれない。

豪スタッフたち。左から2番目はシモン監督。橘田監督や中島梨紗選手は豪留学の際、彼女のチームでプレーした いい選手がいたのに今回も4位にとどまったカナダ

駆けつけた選手の家族や友人

 サンマリンスタジアムは水はけが抜群に良く、照明にも様々なバリエーションがあって、さすが惜しみなくお金をかけて作っただけあると思わせる球場だが、地の利はあまりよくない。JR宮崎駅から木花駅まで20分(1時間に1本)、下車徒歩15分。路線バスだと宮崎駅前からサンマリン前まで35分(1時間に2~5本)、下車徒歩5分というアクセスだ。

たくさんの人が応援に来ていたオーストラリア

 私は宿泊したホテルの場所から路線バスでの往復を選んだが、ほとんどの人は電車やマイカーを使ったようで、私のように路線バスに揺られる人はほとんどいなかった。

 ところが9月5日の夜、数少ないお仲間に出会った。この日、日本はカナダと戦い、12-2の5回コールドで快勝。試合時間も2時間15分と短かったため、「最終バスに間に合うかも」と思いながらバス停に向かうと、いたのは近くの店で飲んできたという地元の男性一人だけ。あたりに明かりらしい明かりはなく、次第に試合の高揚感がしぼんできたとき、もう一人、急ぎ足でやってきた男性がいた。暗いバス停にやはり不安を覚えたのか、「バス、まだ来てないですよね」とひと言。「ええ、たぶん…」。確信がもてないまま返事をして数分。ようやくバスが来た。

 先客は年配の外国人男性2人。試合の様子らしきことを話している。どうやら球場近くにあるもう一つ前のバス停から乗ってきたらしい。

 私は何気なくあとから来た男性の後ろに座った。ふと見るとその男性のTシャツになにやら書いてある。
「柳葉魚(ししゃも)の町 北海道広尾町」
 ん? 北海道広尾町? ってことは、志村選手の応援に来た人?

 思わず「すいません、北海道からいらしたんですか?」と声をかけると、振り向いたその人は「はい、そうです」と照れくさそうな笑顔。「志村さんの応援ですか?」とたたみかけると、「はい、私、父親です」と一気に相好を崩した。

 なんという奇遇。まさかこんなところで志村選手のお父様にお会いしようとは。志村さんは町議会議員をしていらっしゃるとかで、町名入りのTシャツは町のPRのためとのことだった。

熊本から応援に来た「暴れん坊ガールズ」の中学生選手たち。右は「西日本レディースカップ」優勝投手。九州だけでなく、全国から子どもたちが観戦に訪れた

 遠路北海道から来たのは、応援もさることながら「こんなときでもないと(娘に)会えないですから」と父親ならではの言葉(※)。「奥様もご一緒ですか?」とうかがうと、「いや、女房はだめなんだそうですよ。試合を見ると心臓がドキドキしちゃって」と言う。家で留守番しながらひたすら娘の活躍と日本の勝利を祈っている志村選手のお母様を想像して、心があたたまった。

 わずかな時間だったが志村選手の子ども時代の話、北海道でプレーしていたときの話をうかがい、楽しい時を過ごした。バスが宮崎市一の繁華街、橘町のバス停に着くと、志村さんは「じゃ、また」と言って降りていった。

 志村さんだけでなく、今回の大会には川端友紀選手のお父様が初日から、里綾実選手のご家族や友人が大勢応援に来ていると聞いた。もちろんすべての選手の家族や知人が駆けつけていたに違いなく、それは日本開催ならではの幸せだった。

 一方、同乗していた外国人はオーストラリア選手の父親たちだったようで、偶然彼らの隣に座った地元の若い女性に娘たちの写真を見せ、「女子野球のワールドカップって知ってる? 今うちの娘が出ているんだ」と一方的に自慢話。急に話しかけられたお嬢さんはびっくりしながらもうなずいてあげていたが、どこの国も親心は一緒なのだった。

※志村選手は北海道を離れ、東京の「アサヒトラスト」でプレーしている。

矢野選手は福岡県出身。たくさんの人が応援に来たことだろう

他の選手たちにも強力な応援団が

決勝の先発は誰?   

 プレスルームには当然のことながら外国人記者もいる。そのなかに仲間からマイクと呼ばれる大柄なアメリカ人記者がいた。いつもコーラとチップスの袋を持って現れ、最前列の机の上にカメラバッグなどたくさんの荷物を置いて3人分のスペースを確保すると、パソコンで試合経過を本国に送信していた。ちょっと迷惑なマイクの荷物は、いつも本人が席をはずした隙に誰かが押し返してスペースを作っていた。 

大型新人、サラ・ヒューデック選手

 6日の夜、私はマイクの左隣に座って2次ラウンドのアメリカ戦を見ていた。試合の終盤、マイクがメンバー表を見ながらキーボードを打っているのを見て、ふと「アメリカのエースは誰なの?」と聞いてみた。するとマイクは「ウェル…」なんて言いながら名簿を指でなぞり、サラ・ヒューデック選手のところで止めた。W杯初出場の17歳の新鋭だ。「それじゃあ明日の決勝は彼女が投げるの?」と聞くと、マイクはライバル国の人間を警戒する様子もなく、「そうだよ」と返事をした。

 私はさらに「彼女はソフトボールの選手? それとも野球の選手?」と聞いてみた。アメリカ選手の中にはソフトボール選手もいると聞いていたからだ。するとマイクは「彼女は高校で野球をやっているよ」と即答。あとで知ったことだが、彼女の父はヒューストン・アストロズの元ピッチャー、ジョン・ヒューデックで、本人はジョージ・ランチ高校野球部「ロングホーンズ」で、男子と一緒に野球をやっている選手なのだった。
(参考動画は → こちら

 明日の決勝の先発はサラ・ヒューデック選手。ものすごくあっさり手に入った重大ニュースだったが、大倉監督には伝えなかった。だってチーム関係者でもないマイクが明日の先発を知っているとは思えなかったし、そんな不確実な情報でジャパンのみなさんを混乱させてはいけなかったから。

最速125キロのストレートとスライダー、縦カーブが武器の里選手

 しかし翌日の決勝戦は本当にサラが先発し、そして一人で投げ抜いた。初めてのW杯とは思えない度胸の良さと左の上手から繰り出す球は威力充分。制球力もあり、エースの名に恥じない仕事ぶりだった。

 対して日本のマウンドに上がったのは里綾実選手だった。実は記者仲間では決勝の先発は誰になるのか時々話題になっており、ある記者は6月に追加召集された女子プロ野球「ウエストフローラ」の矢野みなみ選手を有望視していた。なにしろ召集された時点での矢野選手の成績は、12試合に登板して防御率0.87という驚異的な数字だったから。また別の記者は先のW杯MVPの磯崎由加里選手の名前を挙げていた。

 私は矢野選手が招集される前、代表関係者から里選手の調子が良く、投手陣の要になるかもしれないという話を聞いていた。でもプロで里選手より良い成績を残している矢野選手が招集された時点でどうなるかわからなくなっていたし、現地に入ってからの調子も考慮しなくてはならない。だから里選手と矢野選手の先発の確率は五分五分だと思っていた。

 そして決勝の朝、選手たちの調整場所になっていた木の花(このはな)ドームで、トレーナーをつけて入念にストレッチしていたのは矢野選手だった。里選手はドーム内を何往復も軽く走り続けるだけだったので、これは矢野選手が先発かな、なんて思っていたら、実際はやっぱり里選手だった。

木の花ドームで調整する矢野選手

 この辺の事情を大会が終わってから里選手に聞いてみたら、2次ラウンドのアメリカ戦の前に大倉監督から、「明日(決勝)、頭(先発)でいくぞ」と言われていたのだそうだ。でも矢野選手の入念なストレッチの様子からして、大倉監督は矢野選手にも「準備しておけ」と言っていたのかもしれない。

 先のW杯の決勝では里選手は新谷博監督に「いつでもいけるように準備しておけ」と言われていたそうだが、結局磯崎選手が完投したために出番がなかった。今回はその時の里選手の立場に矢野選手が立った…。とまあ、これはあくまでも私の推測だけれど。

進む世代交代。世界的に増えている10代選手

 今回日本には10代の選手が2人いた。いずれも初選出の平賀愛莉(あいり)選手(18歳)と笹沼菜奈選手(18歳)だ。2人とも1次、2次ラウンドに2試合ずつ出場して経験を積み、特に笹沼選手は最優秀防御率と最優秀先発投手の2つの賞を受賞した。

平賀選手、18歳 笹沼選手、18歳

 こうした若い力の台頭は日本だけではない。先のサラ・ヒューデック選手は17歳で、最多勝利賞と最優秀救援投手を受賞。最後の最後まで厚ケ瀬美姫選手と最優秀遊撃手の座を争い、破れたとはいえ打率で世界4位に入ったアメリカの遊撃手、ジェイド・ゴルタレス選手はまだ16歳だ。またアメリカはこのほかにも16歳と19歳の選手を連れてきていた。

 若手の育成に力を入れているオーストラリアにも10代の選手が5人おり、今大会最速の122キロをマークしたヘプバーン・ブリトニー選手は10代ではないが弱冠20歳だ。またカナダや香港にはそれぞれ4人の10代選手がおり、オランダも2年後、4年後のW杯を見据えて16歳の投手を連れてきていたという。

 こうしてみると4連覇したとはいえ、次のW杯で日本が優勝できる保証はどこにもない。特にアメリカの若手の実力は抜けていただけに、今後も日本とハイレベルな戦いを繰り広げるに違いない。

ヒューデック選手は17歳 オーストラリアのブリトニー選手は20歳

フェイスペインティングした14番、ケルシー・ウィットモア選手も16歳 ゴルタレス選手、16歳 

 若手の活躍の一方で不振だったのが、W杯の顔ともいうべき大ベテラン、アメリカの主砲、タマラ・ホームス選手(40歳)だ。1993~95年まで存在したアメリカの女子プロ野球チーム「コロラド・シルバーブレッツ」の元選手で、10年のベネズエラ大会ではスタンドインしたものをふくめ3本のホームランを放ち、12年のカナダ大会でも打率.679をマークして首位打者に輝いた伝説のプレーヤーだ。

伝説のプレーヤー、ホームス選手

 しかし今回はホームランどころかシングルヒット5本、打率13位(.313)という寂しい結果に終わった(1位の厚ケ瀬選手の打率は.583)。

 噂によるとホームス選手は重量上げでオリンピックに出ることを目指しているといい、野球とは違う筋肉をつけすぎて動きにキレがなくなったという。新たな目標についても今回の不振の理由についても本人に聞かないと真偽のほどはわからないが、日本の4連覇に彼女の不振が追い風になったのは確かだ。

記者たちを引きつけた決勝でのファインプレー

 9月7日、決勝戦の朝はどんよりとした灰色の雲が空を覆っていた。

スターティングオーダーの発表にあわせて走り出る日本選手。4階からの眺め

 6日の夜に宮崎入りした雑誌『Number』編集部の橋本カメラマンと、選手たちの調整場所である木の花ドームに向かっていると、黒い雲が風に乗って近づいてくるのが見えた。「来そうですねえ」と2人で天を仰いだが、案の定、決勝戦に先立って10時から始まったオーストラリアvsカナダの3位決定戦は途中から激しい雨になり、中断。なかなか降り止まない雨に、テレビ中継などが予定されている午後1時からの決勝戦への影響を恐れてか、会場をアイビースタジアムに移して試合が続行されるというハプニングが起きた。

 おかげで決勝は予定どおり1時に始まったが、雨が降ったりやんだり。そんななか戦ったアメリカは、やはりそれまでの相手に比べ、明らかに格が上だった。
 前日に行われた2次リーグのアメリカ戦を振り返ってみても、それまで日本は全試合コールドでヒット数12~8本だったのに対し、アメリカ戦はフルイニング戦ってもヒット数6本とそれまでの最低。せっかく塁に出ても後続が打ち取られて残塁というケースが多かった。相手投手のコントロールも良いため、四死球で塁に出るチャンスが少なく、またミシェル・スナイダー三塁手の好守備などもあり、勝ったとはいえスコアは1-0だった。

 決勝はさらに厳しかった。日本は序盤、エース、ヒューデック投手を攻略できず、わずか2回で三振を3つも奪われるという、この大会初の苦境に立たされた。
 しかし3回裏、レフト前ヒットと送りバントで六角彩子選手が二塁に進塁すると、続く三浦伊織選手の内野ゴロをゴルタレス遊撃手が捕球ミス。慌ててボールを追う間に六角選手が二塁から返って先制点。プレスルームではこの日初めて日本人記者たちが小さく息を吐き、キーボードの上に軽やかに指を走らせた。

 4回表。ヒューデック選手がレフト前ヒットで出塁すると、サマンサ・コブ選手がサード強襲のヒットを放ち、1死一、二塁に。アメリカ、この日初のチャンス。続くスナイダー選手が打った球はセカンド正面へ。絵に描いたようなダブルプレーコース。出口彩香二塁手が捕球して厚ケ瀬遊撃手へトス。厚ケ瀬選手が川端一塁手へ送球。

厚ケ瀬遊撃手にトスする出口二塁手(6回表)

 このとき選手の動きに合わせて日本人記者たちの口から「4、6、3」という、控えめだがはっきりとした声が上がった。全員の意識が選手の動きに集中していた。
 ダブルプレー成功! ふっとゆるむ空気。大舞台での見事な連係プレーは、百戦錬磨の記者たちの気持ちをも引き付けるに充分だった。もちろんアメリカの記者たちは声もなし。

 日本は6回表にも4、6、3のダブルプレーを決め、アメリカの攻撃を断ち切った。このとき、タマラ・ホームス選手の鋭い打球に飛びついた出口二塁手は、試合後「タマラは引っ張る傾向があるから、本来の守備位置より1メートルぐらいセカンド寄りに守っていた」とコメントした。その研ぎ澄まされた意識とプレー、しびれますね。

 試合はいよいよ最終回、7回の表を迎えようとしていた。

西捕手と里選手

 雨の中、ダッグアウトから出てきた日本選手たちは駆け足で守備位置に向かったが、プレスルームの窓から、マウンドに向かう里選手を西朝美捕手が呼び止めるのが見えた。2人は二言三言言葉を交わすと、すぐ守備位置に散ったが、いったい何を話したのだろう。気になって後日里選手に聞いてみたら、

 西選手「このイニングの目標は?」
 里選手「もう抑えるだけです」
 西選手「じゃ、マウンドで会おう」

 そんな会話が交わされたのだという。
「マウンドで会おうっていうのは、最後まで投げきれよっていう意味だったと思います」
 と里選手は言ったが、神村学園高等部、尚美学園大学と、彼女と同じコースを歩んだ2歳年上の西選手が後輩に送ったエールであり、緊張を解こうという捕手としての気配りだったのだろう。

大倉監督と選手たちの思い

 試合は3-0で日本が勝利した。ヒット数はアメリカ7、日本4とアメリカのほうが多かったが、アメリカは2つのミスをおかし、それらが失点につながった。対する日本はノーエラー。最後まで気持ちを切らさずに投げ抜いた里選手の精神力と、それを援護した素晴らしい守備、そしてヒットが出ない状況を想定して磨きをかけてきたバントや走塁などが奏功してもぎとった優勝だった。そしてそれは一人ひとりの役割分担を明確にし、迷いなく自分のプレーに集中させた大倉野球の勝利でもあった。

歓喜の胴上げ(大倉孝一監督)

 IBAFテクニカルコミッショナーとして全チームの試合を見た橘田さんは言う。
「日本の実力は頭一つ抜けていました。投手力、守備力、足をからめた攻撃、どれをとっても素晴らしかったです。おかげで日本でプレーしたいという外国人選手は前回のW杯のときよりさらに増えました。逆に言えばそれだけ日本が世界の女子野球の発展のために果たすべきことが増えたといっていいでしょう。たとえば世界の若い選手を今後どう育てていくのかなど、日本が中心になって考えていく必要があるでしょう」

 ヒーローインタビューのあと、グラウンドでは喜びと達成感に顔を輝かせた選手たちが記者たちのインタビューに答え、その表情をたくさんのカメラマンたちが追いかけていた。

『Number』の橋本カメラマンもその一人。今回同誌では金由起子選手、中島梨紗選手、里綾実選手、川端友紀選手の野球人生を紹介したが、その全ての撮影を担当し、W杯にも足を運んでくれた。やさしく謙虚な人柄ながら、納得のいく写真が撮れたときは「これ、どうですか?」なんて言いながらカメラの液晶画面を見せてくれた。今回橋本さんの写真を何枚かお借りしたのでご覧いただきたいと思う。

 さて、色々な人をつかまえようと球場内の通路を走っていた私は、グラウンドに続く通路に出たとたん、大倉監督が目頭をおさえて立っているのに出くわした。万感胸に迫るものがあったのだろう、人目を避けて一人静かに涙していた。

右下から時計回りに厚ケ瀬選手、里選手、中村選手、中島選手、矢野選手、三浦選手

 予期せぬ光景に少々慌てたこともあり、思わず「おめでとうございます」と声をかけてしまったが、大倉監督は軽く頭を下げると通路脇の小部屋に入っていった。すいません、邪魔をしてしまって。

 6月に取材をしたとき、「もしこれで優勝できなかったら、僕は消えますから」と笑っていたが、代表監督としてどれほどプレッシャーに耐えてきたことだろう。本当にお疲れさまでした。

 夕方、私は3日間お世話になったプレスルームをあとにした。閉会式も監督の胴上げも見られなかったけど、空港に向かうタクシーの中で選手たちの輝くような笑顔が頭から離れなかった。

 今回の優勝を引き寄せたもの。それは日本開催という好機に、「女子野球を知ってもらいたい。私たちのプレーを見て野球をやりたいという女の子が一人でも増えてほしい。そのためにも絶対負けられない」という選手全員の強い強い思いだった。
 だからこその優勝、だからこその4連覇だったことを、ぜひ皆さんに知っていただきたいと思う。

 次回W杯は2016年、韓国で開かれる。

優勝の瞬間

あいにくの天気にもかかわらず、集まった観客は1万4000人 決勝のスコアボード

※掲載した写真、文章の転載を禁じます。

powered by HAIK 7.3.7
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional