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太田貞雄(東京都・府中市学童野球連盟会長)

 2012年1月24日

シリーズ 指導者たち②

太田貞雄 (東京都・府中市学童野球連盟会長)

女の子に野球をやらせてあげたい。
その思いだけで様々な困難を乗り越えてきました

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Sadao Ota

昭和18年、東京都大田区生まれ。小中学生時代は草野球、学生時代は軟式野球部でプレーし、東京電力㈱に入社後は同社軟式野球部で活躍。長男が少年野球を始めたことをきっかけに、昭和55年「武蔵台ビッグベアーズ」を立ち上げ、平成5年まで監督、代表。府中市ジュニアスポーツ振興会・西部地区野球部部長などを経て、平成10年から府中市学童野球連盟会長。平成15年、連盟役員として「オール府中女子」を立ち上げる。現在、府中市野球連盟理事、東京都軟式野球連盟・少年部常任幹事も務める。

(文中敬称略)

 新宿から京王線特急で20分。東京都西部、武蔵野台地の一角にある府中市は、昭和50年代から女子学童チームをもち、学童野球連盟ぐるみで女子選手を育ててきた土地だ。その30年に及ぶ歴史の中で何度か切れかけた女子野球の糸をつなぎ、環境を整えてきたのが太田だった。

府中市初の女子チームを地区役員としてサポート

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 西部地区の少年野球チームの監督だった太田が、女子チーム創部の噂を聞いたのは昭和57年のこと。
「西部地区にある第五小学校の女子選手のお父さんコーチが、同じチームの女の子たちを集めて五小ファイブファイターズ女子(以下、五小女子)というチームを立ち上げたんです。昭和50年代は女子選手の数がすごく増えてきた時で、たまたまその時、五小に女の子がたくさんいたんです。

 当時私は自分のチームをもっていたので、ああ、女子チームができたんだなっていう程度の認識しかなかった。ところがある年、うちのチームにすごくうまい女の子が入ってきたんです。でもいくらうまくても男の子と一緒だとなかなか力を発揮できない。どうにかしてこの子を伸ばす方法はないものかと考えて、チームは違うけれども五小女子に入れてもらった。それが女子野球に肩入れするようになったきっかけです」

 自分の選手を女子チームに送り込んでみると、女子チームが置かれた環境が気になり出した。
「いろいろ聞いてみたら、周りに女子チームがないので試合もできず、男子チームの練習の合間を縫って短時間練習する程度だということがわかったんです。それじゃかわいそうだ。せっかくだから正式なチームとして登録して、西部地区の大会に出してあげようと思ったんです」

府中市の「学童女子軟式野球交流大会」で挨拶する太田氏(平成23年)

 その頃には西部地区の役員もやっていた太田は他の役員たちに相談してみたが、当時のベテラン指導者の中には「女の子に野球ができるの?」とあからさまに口にする人たちがいたという。

「でも『やってみなければわからないでしょう』と話をしたら、それ以上反対する人はいませんでした。むしろ大変だったのは、女子チームをどの学年の大会に出すかということ。女の子ばかり集めたから3年生から6年生までいるんです。だからずいぶん役員たちの間で意見が分かれました。
 結局このへんが妥当だろうということで4年生の大会に出場させたんですが、けっこういい勝負をして、しかも生き生きとプレーしたので、誰もが女子チームをすんなりと受け入れてくれました」
 
 そして大会に参加するようになって3、4年もたつとレベルが上がり、4年生チームではバランスがとれなくなってきたため、5年生が主体のときは5年生の大会に、6年生が主体のときは6年生の大会に出すようにしたという。

関東大会に出場。チームは快進撃するが…

 人間、うまくなってくると欲が出る。西部地区の大会だけでなく、もっと出場できる大会はないかと思って情報を集めると、まもなく、立ち上がったばかりの関東女子軟式野球連盟(以下、関女連)が主催する女子学童大会(「女子軟式野球関東大会 少女の部」)の情報が入ってきた。昭和63年、チーム結成から6年後のことだ。
「じゃあ出してあげようということで、年2回行われるその大会に出場するようになったのです。おかげさまで春2回、秋2回優勝することができました」

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 子どもたちの活躍によって一躍関東の女子野球界にその名を知られるようになった五小女子だが、華やかな戦績とは裏腹に、チームは平成7年頃から深刻な状態に陥っていた。入団する選手が減って単独チームが組めなくなり、西部地区の大会に参加できなくなったのだ。
 するとモチベーションが下がったのかさらに選手が減り、平成9年、遂にチームは自然消滅。やむを得ず関女連の大会には太田たち連盟役員が作った西部地区の選手を中心とする選抜チームが参加するようになった。

 しかし平成14年、関女連が少女の部の参加資格を小学生から中学生以下に変更。小学生と中学生が入り交じって試合をすることになったため、
「パワーや技術が違いますから、とてもじゃないが、子どもたちが怖くて試合ができないんです。それで15年にわたって参加してきた関女連の大会を降りてしまいました」

度重なる危機を乗り越えて女子大会を創設

 単独チームも選抜チームも姿を消したグラウンドを見て、太田は考えた。「確かに西部地区のチームはなくなったかもしれない。でも府中市全体を見渡せば女子選手はまだたくさんいる。だからもう一回女子チームを作れないか」と。
 実際、府中市学童野球連盟の会長になっていた太田のもとには、「娘が試合に出られない」「男子と一緒で練習がきつい」「また女子だけでやりたい」という保護者の声が集まっていた。早速、各地区のチームに現状を聞いてみると、「女の子? うちにもいますよ」「うちの試合に支障がなければ大会に出してもいいですよ」という声が返ってきた。

 それならばと連盟内で意見をまとめ、指導者を探して、平成15年、府中市全体の選抜チーム「オール府中女子」を立ち上げた。東部地区や中部地区にはまだ女子野球に不慣れな人が多かったため、「誰かが道をつけてあげなくてはいけないだろう」と太田自身も初めの何年かはコーチとして参加。選手の指導に当たるとともに、その人脈を生かして大会探しに奔走した。

 その結果、平成16年からはIBA-boys(少年軟式野球国際交流協会)の女子学童大会に、17年からは江戸川区で開かれる東京都の女子学童交流大会に参加できるようになり、子どもたちは優勝や準優勝をおさめるなどの活躍を見せたのである。

平成23年の府中市「学童女子軟式野球交流大会」にて。

 ところが平成19年、せっかく順調に進み始めた活動にブレーキがかかってしまう。今度は連盟の都合でIBA-boysの大会を辞退せざるを得なくなってしまったのだ。

「いやあ、どうしようかってみんなで頭を抱えましてね。それで、いっそのこと自分たちでやろうよっていって大会を作ったんです」

 それが「学童女子軟式野球交流大会」だ。第1回は近隣の4チームを招待して行われたこの大会は、高まってきた女子野球熱を背景に、平成23年の第4回大会には都内19チームが参加する全国最大規模の学童大会(当時)に成長した。

環境作りのコーディネーターとしての持論

 数々の苦労を重ねてまで女子野球を応援する理由は何なのだろう。
「とにかく女の子に野球をやらせてあげたいからです。女の子はだいたいベンチに入っていて試合に出られないでしょう。そういうのを見ると気になって仕方がないんです(笑)。
 それに女の子だけでチームを組むと、男の子に交じってやっているときより生き生きしている。同じ女の子同士、負けたくないという気持ちはあるんでしょうけど、楽しさのほうが強いみたいですね。普段練習を休みがちな子でも女の子の練習には必ず出てくるし、休憩時間にはみんなで集まっておしゃべりしていますから。

 女の子っていうのは笑い声一つとってもかわいいですね。聞いているこちらの気持ちまで朗らかになる。私には娘がいないからよけいそう思うのかもしれませんが、女の子が生き生きとプレーするのを見るとうれしくなります」

 とはいえ、太田が女子チームの監督になったことはなく、直接指導したのは自分のチームの女子選手と初期のオール府中女子の選手だけ。あとはもっぱら女子野球環境を整えるコーディーネーターとして力を尽くしてきた。

女子チームの指導者は審判部や役員が選ぶ。

 その経験から生まれた環境作りのポリシーを紹介しよう。
①とにかくチームを作って男子とでもいいから試合をし、女子チームの認知度を上げる。
「認知度が上がってきたら近隣のチームを集めて大会を作るとさらに女子野球が定着し、その大会に参加するためにチームを作る地域も出てきます」

②監督コーチには女子の指導経験のある人を就ける。
「いつも男の子ばっかり教えている人が指導すると、女の子という意識が強すぎて遠慮してしまったり、女子チームには学年の低い子もいるということを忘れて6年生と同じように叱って萎縮させてしまうからです。人選は私たち役員や審判部がやります。いつも大会で指導者の采配を見ていますから、この人はまとめるのがうまいとか、やる気にさせるのがうまいっていうことは自然とわかります」

③連盟に女子担当役員を置く。
「うちの連盟には女子部というのがあって、大会運営はもちろん、情報収集や連絡を行い、女子チームの様子などにも気を配っています。担当役員を置くと連盟内で女の子の活動が認知されるし、責任の所在も明らかになって、しっかりした体制で活動を支えることができるのです」

女子学童選手の指導で大切なこと

 女子選手の指導が下手な指導者には、その場で注意をすることもあるという太田は、女子の指導法についてもポリシーをもっている。

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「まず野球というスポーツには男の子も女の子もないという考え方で接することが大切です。

 たとえば男女一緒のチームでは、男の子は女の子に対して非常に引くというか、試合でも遠慮してタッチにいけないんです。また女の子は精神的に大人になるのが早いから、高学年になると実力とは関係なくお姉さんぶったもの言いをするんですが、それをそのままにしておくと男の子が萎縮してしまう。逆に女の子は男の子の中に入るだけで萎縮してしまったり、がんばらなきゃいけないときに甘えてやらないことがある。

 だからうまくいけばほめる、エラーすれば叱る、やらなきゃいけないことはやる、というふうにまるっきり同じに指導してあげないといけません。子どもたちにもそういう意識を植えつけることが大切です」

 その一方で女子を意識した指導も必要だという。
「私が長年見てきた経験からいうと、女の子は男の子よりボールを怖がる傾向があるようです。特に3、4年生は守備についてもボールが飛んでくると逃げちゃう。バッターボックスに立っても後ろに下がっちゃう。

 だから最初はボールを手でトスしてボールが怖くないということを教え、バッターボックスに立ったときは、それ以上後ろに下がれないようにかかとのところにバットを置く。また女の子は男の子みたいにあちこち座ったり登ったりしないからか、足を開いて腰を落とすっていうゴロの体勢がとりにくいようですね。だからボールが怖くないようにノックではなく、2、3メートル離れたところから手でボールを転がして体勢を作る練習をする。フライもあまり遠くからでなく、10メートルぐらいの距離からくり返しくり返し手で投げてあげる。
 
 そうやってボールへの恐怖心をとってあげると、女の子はすごく伸びるんです。もともと小学生の間は体力的に大きな差はないので、男の子をしのぐ活躍をする子もよくいます。

 つい最近、ある女子中学校の硬式野球部に入った子がいるのですが、その子も最初はボールを怖がっていた選手なんです。でも1年ぐらいかかってボールに慣れたら急に伸びて、オール府中女子でピッチャーをやったりキャプテンをやったりして、今ではさらに上を目指している。こういうのを見ると指導者冥利に尽きますね」

オール府中女子のメンバーと(平成23年) 。

中学生の軟式クラブチームの設立にも尽力

 2010年に府中市に女子中学生の軟式クラブチーム「府中ピンクパンサーズ」ができたこともうれしいという。
「オール府中女子のOBで、中学に行っても野球をやりたいという選手が何人かいたんですが、中学の野球部に入部を断られちゃって、それで保護者が連盟に『実は中学生のクラブチームを作りたいんですが』と相談に来たんです。中学野球部は中体連の管轄下ですが、中学クラブチームなら少年野球連盟の管轄下です。私たち学童野球連盟と同じ市の野球連盟の下部組織ですから、なんとかなるんじゃないかと思って」

 すぐに少年野球連盟の親しい理事たちに相談に行き、何度か会議で諮ってもらってクラブチームの立ち上げを実現した。持ち前の行動力と長年少年野球に携わるなかで培った人脈が今回も生きたわけだ。
「大会では勝ったり負けたり、なかなかいい試合をしているみたいですよ。中学生の女子チームを市の少年野球連盟が認めてくれたのもうれしいですね」
  
                  ☆  

 一度チームを立ち上げても、長い間安定的にチームを存続させるのはとても大変な仕事だ。府中市の場合も五小女子を立ち上げた熱意ある指導者は若くして亡くなり、その後の指導者も自己都合でチームを去ったり亡くなったりしたという。もしチームがたった一人の情熱で支えられていたとしたら、今頃府中市に女子チームはなかったし、中学生チームが誕生することもなかっただろう。

 連盟が地域ぐるみでチームをサポートし、志をつないだからこそ現在がある。そしてその中心に太田がいる。

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