女子野球情報 

昭和50年代のブーム

 アニメとアイドルと全国組織と 「女子野球と世の中の動き」の早見表つき

昭和50年代の女子野球ブームに迫る

昭和53年の第1回全国大会開会式。写真提供/鈴木慶子

 昭和50年代(1970年代後半~80年代前半)、一時期、女子軟式野球が大変な盛り上がりを見せたことをご存知だろうか。しかも今の全国組織「全日本女子軟式野球連盟」の前に別の全国組織があって、全国大会まで開いていたのだ。神奈川県で開かれた第1回大会には、少女の部(小中学生)24チーム、一般の部(高校生以上)5チームが参加したというから驚く。なかにはテレビのワイドショーに引っ張り出された学童チームもあるというから、これはもう社会現象といっていい。
 
 ところがブームは数年で去り、昭和58年(83年)ごろには全国組織もなくなって、遂には忘れ去られてしまう。その全容はどんなものだったのか。約40年前の真実に迫った。

※文中の「女子野球」はすべて「女子軟式野球」を意味します。

野球熱に浮かされた昭和40年代と50年代

 昭和50年代とはいったいどんな時代だったのだろう。40年代の動きと合わせて見ていこう。
 まず経済面。高度経済成長期を経て人々の暮らしはすっかり豊かになり、「一億総中流」が定着した幸せな時代だ。どこの家庭にもカラーテレビがドンと置かれ、郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の新御三家や、天地真理、麻丘めぐみ、キャンディーズといったアイドルたちがもてはやされていた。まだゲームもスマホもなかった時代、子どもたちの最大の楽しみはテレビだった。

 野球も元気だった。昭和40年から48年の、ONを擁した巨人のセ・リーグ9連覇が生んだ熱気が、50年代に入っても続いていたからだ。のちにアメリカ女子プロ野球リーグでプレーする鈴木慶子さん(現「町田スパークラ―ズ」「Far East Bloomers」)は、父の膝の上で野球中継を見ながら、「いつか私も王さんのようにプロ野球選手になるんだ」と胸躍らせたという。

 スポーツアニメも大人気。昭和40年代は「あしたのジョー」「アタックNO.1」「エースをねらえ!」といった名作漫画が生まれ、次々とテレビアニメ化されたが、野球漫画も同じ。『週刊少年マガジン』に連載された「巨人の星」が昭和43年にテレビアニメ化されると、これが最高視聴率36.7%を記録するお化け番組に。このヒットに気をよくしたテレビ業界は、以後、「男どアホウ!甲子園」「アパッチ野球軍」「侍ジャイアンツ」などをアニメ化し、いずれも野球ファンに支持された。

 かつて8回も女子野球日本代表に選ばれたレジェンド、森井和美さん(現「モンスターズ」)は、子どものころ、ありとあらゆる野球アニメを見て、野球への憧れを募らせたという。昭和52年か53年に大阪で一番早く女子軟式野球チーム「大阪エンタープライズ」を作った石田京子さん(旧姓千葉京子。平成26年、28年女子野球日本代表・石田悠紀子さんの母)も、「黒い秘密兵器」「俺の甲子園」などの野球漫画を読みふけり、「巨人の星」や「男どアホウ!甲子園」などのテレビアニメに夢中になったという。

 下の表をご覧いただきたい。全日本軟式野球連盟に登録した軟式野球チームの数だが、昭和50年から55年にかけて(黄色で塗った部分)、ものすごい勢いで小学生チームが増えている。おそらく50年に全日本軟式野球連盟が小学生と中学生の登録を開始し、少年野球大会が整備され始めたことが原因だろう。目指すものができたことで、40年代に蓄積された子どもたちの意欲に、一気に火がついたと考えられる。

■全軟連の登録チーム数の推移(昭和45年~平成27年)
全軟連の登録チーム数の推移(昭和45年~平成27年)

 しかし55年を境に小中学生チームの数が急落。54年12月にアニメ「ドカベン」が終了し、55年に王貞治選手が引退したからだろうか。それとも第二次石油ショックの影響? 理由は調べてもわからなかった。

昭和52年4月、水原勇気からの? 女子野球ブーム到来

 50年から55年の黄金の6年間は、女子野球界にも新たな動きをもたらした。46年に女子ノンプロ野球が完全に消滅してから6年。「昭和52年4月」を起点に、少女野球ブームが起きたのだ。

 まず52年4月に北海ベアーズ(北海道)、前橋中央レディース(群馬県)が誕生し、その年のうちに滝山コメット(東京都東久留米市)、ジュニアフラワーズ(台東区)、渋江スラッガーズ(葛飾区)、JBBSエンゼルス(千代田区)、ドリームウイングス(板橋区)、横浜ガールズ(神奈川県)が誕生している。最初は小学生中心だったが、すぐに大人までをもふくむ大きなうねりになっていった。

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 この、突然とも思える女子チームの創部ラッシュ。そして52年4月というタイミング。いったい何があったのだろう。調べてみると、興味深い事実にぶつかった。昭和52年3月19日、映画「野球狂の詩」(木ノ内みどり主演)が公開されていたのだ。

 ご存知のように野球狂の詩は水島新司作の人気漫画で、特に昭和50年に女性左腕、水原勇気が登場するや、その斬新なアイディアとストーリーでたちまち大人気になった作品だ。それが実写化されたのだから、野球が大好きな女の子たちは大喜び。
「4年生のとき、父にせがんで映画を見に行きました」
 と、当時を振り返った東京都の元学童選手もいるし、逆に娘の手を引いて、木ノ内みどりの可憐な姿を見に行ったお父さんたちもいたことだろう。
 その結果、女の子たちの「野球をやりたい」という気持ちが抑えきれなくなったのではないか…。映画だけがブームのきっかけではないと思うが、そう言いたくなるほどのタイミングなのだ。

 そして52年末から53年にかけて同作品がテレビアニメ化されると、水原勇気人気は不動のものになり、「うちの小学校でも、水原勇気になりたいと言って野球を始める子が何人もいました」と鈴木慶子さんは言う。

 当時の女子の熱意をうかがわせる、とっておきの秘話がある。水原勇気誕生のきっかけは、野球を愛する女子たちからのファンレターだったというのだ。
 作者の水島新司氏が昭和57年8月に行われた「全国女子野球夏季選手権大会」のパンフレットに寄せた文章によると、氏のもとに「なぜ女子はプロ野球選手になれないのか」「なぜ女子の高校野球はないのか」といった手紙が寄せられ、それならば自分が少しでもその夢をかなえてあげようと考えて、水原勇気というキャラクターを作った、というのだ。

昭和50年代前半の小中学生の関東大会。写真提供/柳田富志男

 つまり水原勇気は、女子の思いと夢を一心に背負って生まれたキャラなのである。だからこそ、野球をやりたくてもできない自分たちの分身として、水原勇気が支持されたのだろう(注)。
 
 余談ながらこの水原勇気人気は意外なところにも影響を与えた。平成20年に神戸9クルーズにドラフト指名された、ナックル姫こと吉田えり選手の父、勇さんを取材したときのこと。勇さんは野球未経験者ながら、小学生の娘を毎日公園に連れて行って野球の特訓を課したのだが、その心を、「娘を水原勇気にしたかったからです」と教えてくれた。

 さて、この女子野球ブームを受けて、昭和52年11月5日、おそらく日本初と思われる少女野球大会(小中学生の関東大会)が神奈川県川崎球場で開催された。参加したのは先の前橋中央レディース、滝山コメット、ジュニアフラワーズ、JBBSエンゼルスの4チームだ。始球式は水島新司氏が務めたと、前橋中央レディースのエースだった神部知子さん(旧姓木村)は言う。

 11月6日付の神奈川新聞にはそのときの様子が「ボク顔負け 少女野球」というタイトルで報じられており(著作権の関係で掲載不可なのが残念)、参加者たちは「来年は全国大会を」と鼻息が荒かったとか。記事の中には関係者の言葉として、「少女野球チームは北海道や九州にもある」と書かれているが、北海道は北海ベアーズとしても、九州のチームがどこなのかはわからなかった。

注●この時代は全軟連が女子選手や女子チームの登録を認めていなかったため、女子は野球チームに入れないか、入れても公式戦には出られなかった。女子大会も野球連盟が認める正式な野球大会ではなく、任意の大会という扱い。全軟連が女子の登録を認めたのは、小学生は昭和62年から、中学生と一般は平成6年からで、日本高野連は未だに認めていない。

アイドル時代のあだ花? フジTVの「ニューヤンキース」

 さらに52年4月、人気アイドル、ピンクレディーの「サウスポー」が大ヒットしたことも、女子野球の追い風になった。別に女子野球選手の歌ではないのだが、ショートパンツ姿で見せる投球モーションに、人々は夢中になった。

 そして53年、フジテレビが女子野球チーム「ニューヤンキース」の結成を決め、2月にセレクションを実施。当時大人気だった女子プロレスのビューティーペアに続く、タレントチームという位置づけだった(下の読売新聞参照)。

昭和53年4月17日の読売新聞朝刊

 初代メンバーで、当時中学2年生だった中山公江さん(のちに女子野球日本代表も経験。現「バットマン」)は、「チームはジャニーズ事務所に所属していました」と言う。
 タレントチームだから、野球の技術もさることながら容姿も重視され、特にかわいい3人は、アイドルユニット「スリーヤンキース」としてデビューした。

 チームの初めての試合は、53年4月に行われた男性芸能人チームとの対戦で、夏にはアメリカに遠征して、メジャーリーグOBたちと試合をした。
 スリーヤンキースが表紙を飾る『ジュニアベースボール』53年11月号(ベースボール・マガジン社)には、アナハイム球場で行われたこの試合を、ピンクレディーと中学1年生だった長嶋一茂さんが観戦する様子が、カラーグラビアで紹介されている。

 53年後半に関西初の女子野球チーム「大阪エンタープライズ」を作った石田京子さんの証言によると、ニューヤンキースの大阪版を作る話もあり、セレクションまで行われたが、立ち消えになったそうだ。

 いずれにしろ、テレビでの露出が多かっただけに注目度は抜群で、新聞雑誌は女子野球の記事を書くときは水原勇気やニューヤンキース、ついでにピンクレディーまで引き合いに出し、グラウンドではサウスポーを探した(もちろん水原勇気やピンクレディーの影響です)。
 この時代の女子野球は、実力より、漫画や芸能のフィルターをかけて見られがちだったのだ。

 でも小学生は別として、中学生以上はそんな風潮にクールで、「女子野球が注目されるのはうれしかったけど、私は野球が好きだからやっていただけ」と、今40代50代の彼女たちは言う。

第5回全国大会・一般の部で優勝したニューヤンキース(後列)と、少女の部で優勝したオリオールズ・レディース(前列)。写真提供/オリオールズ・レディース

 このニューヤンキース、番組改編などで活動の場を失い、1年ちょっとで解散して、世間的にはそれで終わったと思われている。でも実はそうではない。選手たちに懇願されて、コーチを務めていた斉藤宏さん(元東映フライヤーズの三塁手)が監督になり、クラブチームとして再出発したのだ(チームの所属は、この時も斉藤氏が勤めているジャニーズ事務所だった)。

 新生ニューヤンキースは主に男子と試合をしていたが、56年に女子の第3回全国大会に出場して見事一般の部で優勝すると、58年の全国大会まで一般の部で3連覇。メンバーの多くは1期生とは違っていたが、この連覇で、技術よりビジュアル優先と言われた汚名を返上した。
 しかし中山さんの記憶によると、チームは58年か59年に解散したという。

ブームの仕掛け人、日野晴雄と日本女子野球協会

 女子野球ブームには仕掛け人がいた。東京の大学硬式野球部OB(詳細不明)の日野晴雄氏である。当時日野氏は「日本少年野球学校(JBBS)」を経営し、千代田区三崎町に事務所を構えていた。指導陣には別所毅彦、関根潤三、豊田泰光など、錚々たるメンバーがそろっていたという。

 日野氏は52年11月の日本初の少女野球大会に「JBBSエンゼルス(日本少年野球学校女子部)」を率いて参加。当時を知る前橋中央レディース元監督の江野沢浩市さんは、大会を企画し、チームを集めたのは日野氏だったと言う。

第1回全国大会パンフレットの挨拶文

 折からの少年野球ブームと水原勇気人気、そしてこの少女野球大会の成功に勢いを得た氏は、53年2月、軟式の全国組織「日本女子野球協会」を立ち上げ、理事長に就任する。会長には衆議院議員の山口敏夫氏を迎え、事務局は東京都渋谷区の日本医歯薬研修協会内においた。

 川崎球場での少女野球大会が協会の設立につながったことは、第1回全国大会パンフレットの日野氏の挨拶文に明記されている。

 念のために書き添えると、日本女子野球協会という組織は、昭和39年発足の女子プロ野球(準硬式)時代のものと、平成14年発足の硬式のもの、そしてこの軟式のものと3つあるので、お間違えなく。

 驚いたことに、日野氏は協会設立と同じ53年2月に、ニューヤンキースの立ち上げにも関わっている。先の読売新聞にはコーチ陣の一人として日野氏の名前が見える。果たしてニューヤンキースの企画をフジテレビに持ち込んだのは誰だったのか…。
 JBBSの生徒だった先の中山公江さんは、「セレクションには日野さんの指名で、JBBSから4人受験しました」と言い、選考でも日野氏が中心的役割を果たしたというから、彼がニューヤンキースの仕掛け人だった可能性は充分にある。

 日本初の少女野球大会→日本女子野球協会&ニューヤンキースと、次々に女子野球を仕掛けていった日野氏は、協会ができたわずか2ヵ月後の53年4月に関東大会を開催すると、遂に女子野球の第1回全国大会を仕掛けたのである(53年8月、川崎球場などで開催。一般の部と少女の部)。
 
 すると新聞広告や口コミでそれを知った指導者たちが、いっせいに女子チーム創部に動いた。特に関東でその動きが顕著で、52年末には7チームほどだった小中学生チームが、全国大会には関東だけで22チームがエントリー。そのほか北海道や広島からも小中学生チームが参戦した。
 一般の部には日野氏が監督を務めるピンクキャッツ(東京都)など、北海道、群馬、関東の5チームが参加。決勝は東京12チャンネルが放映し、大会は大成功のうちに幕を閉じた。

 当時日野氏は『ジュニアベースボール』で女子野球講座の連載ももっており(内容は男子と同じ初心者向けのハウツー)、52年から54年ごろにかけて、まさに女子野球の顔として大活躍していた。

昭和50年代前半の関東の小中学生大会。写真提供/柳田富志男

 全国大会はそのつどスポンサーを探しながら、54年の埼玉大会(第2回大会)、57年の北海道大会(第4回大会)、58年の奈良大会(第5回大会)と続くが、残念ながら56年に行われた第3回大会の開催地と詳細がわからない。この記事を読んだ方でご存知の方がいたら、ぜひご連絡ください。

 女子チームは全国大会を目標に増えていき、57年には北海道新聞が「所属チームは九州を除く全国に60ある」と書いている。しかし全国大会の参加数は、第2回大会の34チームをピークに減ってしまう。実質的に大会を運営する地方の野球連盟が、出場枠を絞ったからだ。これにより、各チームにとって、全国大会は遠い存在になっていく。

 同時に、協会に対する不信感も漂い始めた。日野氏に取材できなかったので、あくまでも指導者側の一方的な話と断ったうえで紹介すると、協会は野球用具を売りつけたり、日野氏が経営する野球学校や審判学校に選手を引っ張ろうとしたからだという。それを嫌って協会から離れる指導者たちもいた。

 こうして協会は、58年の奈良の全国大会のあと消滅する。ある日突然、協会とまったく連絡が取れなくなってしまったのだという。一説には役員のお金の持ち逃げが原因だったといい、こういう不幸な終わり方をしたために、その存在も活動の全貌も、忘れ去られてしまったのだろう。

              

 協会消滅後、各地の女子野球は2つの道をたどった。全国的にチーム数は激減したが、関東のようにチーム数が多く、指導者たちが有志の大会をしっかり作っていたところは生き残り、その他の地域は昭和60年になるころには衰退したのだ。

 しかし女子の、野球をやりたいという気持ちは静かに燃え続けていた。昭和63年には、かつて日本女子野球協会に加盟していた神奈川と東京のチームが中心になって、関東女子軟式野球連盟を結成。平成2年にはかつての加盟チーム「ドリームウイングス」(東京都板橋区)の川越宗重氏を会長とする、全日本女子軟式野球連盟が発足したのだ。
 全国大会参加者の中からは、鈴木慶子さんや森井和美さん、中山公江さんなど、現在の女子野球界を支える人材がたくさん生まれた。

 アニメとアイドルと全国組織を背景に盛り上がった昭和50年代の女子野球。その活動があったからこそ、今があるのである。

※日本女子野球協会が作った全国大会の記録は → こちら(殿堂入りデータ)

女子野球と世の中の動き

黄色い部分は、全軟連の登録チーム(特に少年野球チーム)が急増した「黄金の6年間」。

女子野球と世の中の動き


資料提供/柳田富志男(元・緑スネークス)、鈴木慶子(町田スパークラーズ)、中田章(元・北海ベアーズ)、全日本軟式野球連盟、読売新聞社、日活

参考資料/『ジュニアベースボール』53年10月号、11月号(ベースボール・マガジン社)、『ガッツ ベースボール』53年8月球夏特別第5号(JBC出版局)、53年、54年、57年の「女子野球日本選手権大会」および、58年の「日本女子軟式野球選手権大会」のパンフレット、「全国女子野球夏季選手権大会」(57年)のパンフレット、「ボク顔負け 少女野球」(神奈川新聞52年11月7日)、「女子野球 私たち、ただ今、特訓中」(読売新聞首都圏版53年4月17日)、「男子顔負けのハッスル」(産経新聞58年8月29日)、その他関東の各種大会のパンフレット
※文中の漫画やアニメなどの年代、視聴率は、ウィキペディアを参考にしました。

※掲載した写真や資料の転載を固く禁じます。

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