女子野球情報 

跡見学園チーム

 特集 大学女子野球事始

第2章 大学女子野球の扉を開いた跡見学園チーム

東京都文京区の跡見キャンパス。かつて跡見学園短期大学はここにあり、「エラーズ」はこの地で誕生した。現在短大はなくなっている

※文中の「女子野球」はすべて女子軟式野球を意味します。
※日本初の大学女子硬式野球部は、平成17年(05年)創部の中京女子大学(現・至学館大学)硬式野球部です。

日本初の大学女子野球チーム、跡見短大「エラーズ」の物語

プロ野球ファンの跡見学園中学高校OGが結成

 昭和52年(1977年)春、東京都文京区大塚の跡見学園短期大学に、女子野球同好会「エラーズ」が誕生した。作ったのは(旧姓)田沼豊子さんをはじめとする跡見学園中学高校の卒業生たちである。

『エラーズ史』(S52~H11年)にはチームや大学女子野球界の出来事が克明に記録されている。第一級の資料だ(校名は平成7年に表紙のものに替わった)

 その誕生は文京区の跡見学園図書館に所蔵されている『軟式野球 エラーズ史』(佐野親夫著)に明記されており、平成30年(18年)1月現在、同チームが、管理人が確認した一番古い大学チームである。

 さて田沼さんは大のヤクルトファンで、よく神宮球場に試合を見に行っていた。
 当時野球は国民的スポーツで、関東には昭和40~48年に王、長嶋を擁した巨人がV9を達成した熱気が渦巻き、テレビアニメ「巨人の星」や「新・巨人の星」が立て続けにヒットしていた。51年にはアメリカのコメディー映画「がんばれ!ベアーズ」が封切られ、弱小少年野球チームが元マイナーリーガーの指導を受けて奇跡的な勝利をおさめる姿に、観客たちが拍手した。52年3月には女性投手・水原勇気が登場する『野球狂の詩』(水島新司作)が映画化されるなど、まさに「野球の時代」だった。

 そんな空気に背中を押されてか、田沼さんは短大の生活芸術科に入学すると、
「同じ科の友達に『ちょっと野球、やってみない?』と声をかけました。みんな跡見学園中学高校の卒業生で野球が大好きだったので、すぐに10人ぐらい集まりました」

 キャプテンは田沼さんが務め、同好会の顧問は生活芸術家のクラス担任、竹内廸也教授(文科英文専攻)に頼んだ。チームの名前はみんなで「エラーズ」に決めた。
「がんばれ!ベアーズをもじったんです。下手だったので(笑)」

 もちろんみんな野球は初めて。
「父親のグラブを引っ張り出したり、新しいものを買ったりして練習しました。みんなずーっと中学のときからの仲間なので、一緒にプロ野球を見に行ったりして楽しかったですね」

 指導は跡見学園中学高校ソフトボール部の加藤幸雄教諭(昭和56年に校長に就任)にお願いした。

中高、短大が共有していたグラウンド(一部)。あまり広くないため、後年できた跡見女子大「バイオレッツ」の選手は、交流戦のとき密かにホームランを狙っていたとか

「実は私は中学校の時だけですが、ソフトボール部に入っていて、加藤先生の指導を受けていたことがあるからです。先生とはソフト部をやめたあとも親しく交流していたし、跡見短大は中学高校と並んで建っていてグラウンドも共有していたので、先生にお願いするのは自然なことでした。

 先生も『野球をやりたいんですが、グラウンドを使わせていただけますか?』と頼みに行ったとき、『やってみなさい』と言って応援してくださいました」

 当時、跡見中学高校のソフトボール部は全盛期にあり、その立役者である加藤先生は野球がとても上手だったという(野球経験者だったかどうかは不明)。中高生の指導があるのでいつもというわけにはいかないが、最初の1年間は時間を作ってキャッチボールやルールなど、丁寧に教えてくれたという。

 助っ人として庶務部職員の佐野親夫さん(野球経験者)も指導に来てくれた。佐野さんは55年からコーチ、平成元年から監督になり、チームがなくなるまでの23年間、エラーズを支えることになる。ちなみに竹内先生は練習にはノータッチだったとか。

 そしてグラウンドが取れたときはグラウンドで、取れなかったときは近くの公園で練習をした。「他に女子チームがなかったので」、試合相手は近所の少年野球チーム。
「でも上級生はうまくて私たちでは歯が立たなかったので、低学年生と試合をしていました」

 大人の男性たちと試合をしたことも。
「1年生のとき、確か夏前だったと思いますが、田舎のちゃんとしたグラウンドで近所のおじさんたちと試合をしたんです。でも塁間、投本間が一般と同じ大きさだったので、投げても届かなくて負けました」

学長も応援。短大関係者に歓迎されたエラーズ

 こんなエラーズだが、短大関係者たちはあたたかく見守っていたようで、52年10月下旬に行われた学園祭(跡見祭)では、教職員チームとの試合が設定されている。それまで短大に教職員チームはなかったというから、エラーズと試合をするためにわざわざ結成されたのではないだろうか。

エラーズの6期生、7期生たち。昭和58年の夏合宿にて。右端はバイオレッツの項に出てくる大学職員の秋山さんで、同年から3年ほどエラーズのコーチを務めた

 先の『エラーズ史』には、
「久保(貞次郎)学長の好投により教職員チームに完敗」
 とある。久保学長は著名な美術評論家で、当時68歳。柔軟な発想と型破りな人柄で愛され、成蹊高校時代は野球部に入っていたという。

 エラーズができたときは「それはいいことだ。ブローブぐらい買ってあげたまえ」と、創部の報告に来た竹内教授に言ったというくらいだから、もしかしたらこの日のために密かに練習していたかもしれない。
 ただし田沼さんは、「なんだかフワッとした変化球で」と、懐かしさとちょっぴり悔しさが入り交じったような声で振り返った。

 チームは54年に部に昇格し、軽井沢で夏合宿も行うようになった。久保学長が合宿の激励に訪れたこともあったといい、人数不足に陥る年もあったとはいえ、順調に活動を続けていった。

 昭和61年に富山県魚津市で行われた全国大会プレ大会には、「費用の件、対戦相手の件がネックになり」(『エラーズ史』)参加を見合わせたが、第1回、第2回全国大会には魚津まで遠征している。全国大会にはその後参加していないが、チームは平成11年3月まで存続し、関東のリーグ戦を主戦場として活動したのである。
  

跡見学園女子大学「バイオレッツ」の物語

ソフトボールじゃつまらない

 昭和54年(1979年)、埼玉県新座市にある跡見学園女子大学・文学部国文学科に入学した辻(旧姓香田)弘子さんは、サークル紹介のとき、2人の学生が手にした「来たれ 野球部」というプラカードを見て、
「わあ、野球部があるんだあ!」
 と胸躍らせたという。 

 熱烈な巨人ファンの母の影響で大の野球好きだった辻さんは、迷わず入部。正確には当時はまだ愛好会だったが(56年に同好会、58年に体育会=野球部に昇格)、そんなことは気にしない。同じように野球が大好きな1年生5人とともに、2期生として練習を開始した。

跡見女子大の新座グラウンドにて。辻さんの卒業アルバムより

 跡見女子大に女子野球チームができたのは、辻さんが入学した前年の昭和53年(78年)夏前のこと。同学園の短大には、すでに52年創部の「エラーズ」があったが、同校の創部はそれとはまったく関係なく、独自の経緯でなされたものだった。

 そのパイオニアは、53年に国文学科に入学した中島(旧姓田辺)明子さんと、(旧姓)金井しのぶさんだ。辻さんが見た「プラカードを手にした2人の学生」は彼女たちである。 
 中島さんの記憶によると、体育の授業でソフトボールをしたとき、
「やるんだったら野球がいいよね~」
 と中島さんが金井さんにささやき、2人はそのまま国文学科の講師、川平均先生の研究室に直行。
「野球をやりたいので顧問になってください」
 と頭を下げたのだという。

 当時は生協も学食もない時代で、2人はお弁当を食べる時も休み時間も、川平先生の研究室に入り浸っていたという。そんな親しさからの依頼だった。

 その研究室をシェアしていたのが、川平先生と同じ中世文学の研究者、故・和田英道先生だ(当時は専任講師。昭和59年に教授、平成2年に学長に就任)。

 和田先生は熊本県の出身で、律子夫人によると、中学高校時代は短距離走の選手として、全国大会に出場したことがあるほどの文武両道の人物だったそうだ。野球部に入ったことはないが野球もうまく、立教大学大学院時代は、「草野球ですが、エースで四番だったそうです」(夫人)。

 跡見女子大には 何人かの先生方と事務職員、営繕課、通学バスの運転手による教職員の野球チームがあったが、和田先生もその一人として活躍していた。当時を知る学園職員の秋山茂さんは、「動きが全然違いました。スナップが効いたボールはよく伸びたし、よく打ちました」と証言する。

 当時はテニス部の顧問をしていたが、川平先生の近くに座って学生たちの懇願を黙って聞いていた。すると和田先生の野球好きを知っている川平先生が、
「和田さん、代わります? 僕がテニスしますから」
 と話を振って、あっという間に和田先生の顧問就任が決まった。この時点で短大に女子野球チームがあることを2人が知っていたとは思えない。エラーズの活動はまだ限定的だったし、国文学科のない短大に、2人が足を運ぶことはなかったからだ。

 念願かなって野球愛好会「バイオレッツ」を立ち上げた中島、金井の両氏は、メンバー4人とともに和田・川平研究室を部室代わりに使い、荷物を置いたり着替えたりと、好き放題させてもらったという。
「うちの大学はこぢんまりとしているので、教授と学生の仲がいいんです」とは先の辻さんの言葉だ。

和田先生が熱心に指導。タレントチームとも試合

 昭和54年、1期生6人に加え辻さんたち1年生が6人入ったことで、チームはようやく人数がそろい、本格的な活動が始まった。

バイオレッツ2期生(ATOMIのユニフォーム)と後輩たち(Violetsのユニフォーム)。辻さんは前列左端。昭和57年

 練習は月水金。日曜日は男子草野球チームと試合をしたり、夏休みは長野県の野辺山で合宿をした。背番号は自分で選べたので、好きなプロ野球選手の番号をつける人もいた。
「みんな野球ができて、本当にうれしくてなりませんでした」(辻さん)

 まだ30代だった和田先生は、
「ショートバウンドの捕り方など、自分でやって見せてくださいました」
 野球部顧問の座を和田先生に譲った川平先生は、結局何度も練習に顔を出し、夏合宿にも参加して、草むらに飛んだボールを丹念に探してくれたりしたという。

「他にも私たちが『綿さん綿さん』と呼んでいた元大学職員の綿貫恵敏さんなど、毎回必ずと言っていいほど誰かしらが指導に来てくださいました。教職員の野球チームの方々は、女子野球チームの良きアドバイザーであり、良き練習相手であり、最高の理解者でした」(同)

 大学の先生や職員たちがこれほど熱心に指導するのは、現在でも珍しいのではないだろうか。ノックをする先生方、ボールに食らいついていく学生たち。辻さんの話からは、当時の喜びと熱気に溢れたバイオレッツの様子が目に浮かぶ。 

昔も今も、バイオレッツの青春の舞台である新座キャンパス

 残念だったのは試合をする大学女子野球チームが他になかったことだ。当時は大阪女学院短大にチームがあることを知らなかったし、神戸山手女子短大(兵庫県)や洗足学園魚津短大(富山県)にチームができたあとも、その存在を知らなかったから、文京区にあった「エラーズ」と、お互いの文化祭のときに交流試合をするくらいだったという。

 それでも華やかなイメージの女子大チームのこと、時には法政大学軟式野球部から試合を申し込まれたり、春風亭小朝率いる「ワカサマーズ」のようなタレントチームと試合をすることもあり、対戦相手には困らなかった。また部員数が定員を割ることもなかったのである。

 余談ながら、昭和62年10月に関東の大学女子野球リーグができる前は、試合の場を求めてか、バイオレッツは一般クラブの「関東女子野球連盟」に加盟していたことがある。連盟の会長を務めた柳田富志男さんは、
「跡見女子大の写真を行政や企業に見せて、大会のPRに使わせてもらいました。だってきれいだったもん」
 と笑った。

 和田先生はその後、全国大学女子軟式野球連盟(現・全日本大学女子野球連盟)の理事長になり、関東の連盟でも会長として女子野球環境を整えるために心を砕いた。

平成28年(16年)の秋季関東リーグで全勝優勝したバイオレッツ

「大学のグラウンドをリーグ戦に提供したり、関東リーグの後援についていた東都大学軟式野球連盟との難しい折衝にあたったりと、関東の中心に立って動いていらっしゃいました」(元洗足学園魚津短大教授・春日利比古先生)

 バイオレッツは昭和62年から平成29年までの31回に及ぶ全国大会のうち、平成13年を除く30大会に出場するという、日本最多の出場記録を誇っている。また平成28年秋の一般大学の関東大会では全勝優勝を果たすなど、その実力は広く大学女子野球界に知られている。

 バイオレッツのジャンパーには、今も創部の年を記念して、「1978」と書かれている。


写真提供/辻弘子(昔のバイオレッツの写真)、大山啓子(エラーズの写真)、バイオレッツ
取材協力/学校法人跡見学園(中谷幸弘、秋山茂、佐野親夫、障子恵)、田沼豊子、和田律子、辻弘子、中島明子、金井しのぶ 
参考資料/『軟式野球 エラーズ史』(佐野親夫著)、『跡見短大の50年』『跡見学園女子大学五十年史』(いずれも跡見学園蔵)

■第1章はこちら → 国文学者たちの活躍と、ネットワークの形成

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